言葉が「明日」や「昨日」を作り、「大地」や「大空」を作る

(旧ブログに書いた記事の再録です。)

面白い話が書いてあった。
 
人間は、音声だけ、ことばだけで、自分が直接知覚できない世界のことを、他人に伝えることができるというのである。「いま池袋でこんなことをやっている」とか「大阪では今、面白いイベントをやっているよ」といった内容である。さらに、まだ来ない時間や、もう過ぎ去った時間の中でのことも、音声によることばだけで伝えることができるという。「十日前にこんなことがあった」とか「来年はオリンピックが開かれるよ」といった内容である。
 
たしかに、人間が使っているような音節を持つ言葉を使わないで「明日」や「池袋」を伝えることは難しそうである。有名なミツバチのダンスでも方向や距離は伝えることはできても、場所を特定したり、ずっと先または前の日時を伝えることはできない。「「ことば」の課外授業」ではこのあたりのことも考察されている。つまり、人間以外の動物も人間顔負けの記憶力を持っていたり、近い過去や未来、身近な地域での出来事について伝えあっていたりする可能性はあるが、それを声で伝え合うことはできないというのである。
 
こうして見ると、「明日」を表現できる言葉を持ったことによって初めて、明日という概念を共有できるようになったという事実に思い当たる。子どもの頃のことはもう忘れてしまったが、私も「あした」という言葉の意味をわからず親にたずねたことがあったかもしれない。親は「夜になって寝て起きたらあしただよ」とでも説明したかもしれない。言葉によって概念を教えられることで、ヒトはそれほど苦労することなく、新しい概念を得ていくことができる。
 
「「ことば」の課外授業」には、もう一つ面白い表現があった。この世界はのっぺらぼうだというのである。
人間が頭の中で捉えている世界は、根源的にはのっぺらぼうで、ただそこに起伏と明暗があるだけですよね。人間はそこに、やはり頭の中で、さまざまな線引きを行うわけです。そして、ある物を別のものと区別する。これは後で話すことになると思いますが、言語というものが持つもっとも重要な性質なんですよ。
「年」、「日」、「池袋」をはっきり区切るものは何もなく、時計や暦を作り、地図を作って境界を設けることによって初めて区切りができるのだ。
 
言葉の持つ作用を意識していないならば、一年や一日という時間を区切ることに疑問を持つことはないだろう。昼と夜、夏と冬は実際に定期的にやってきているのだから、日を区切り、年を区切ることは世界をより詳しく知ったことや「真実に近づいた」ことであると考えるだろう。しかし、事実は逆であることを私たちは動物を通じて知ることになる。
 
動物たちはのっぺらぼうな世界を生きている。月曜日もなければ、午後3時もない。6歳も60歳もない。会社や学校に行くこともなく、選挙権を与えられたり、年金をとられたりすることもない。本来、そんなもののない世界を言葉で区切ったことで、私たちは生命にとって随分不自然な生き方を受け入れているという事実に行き着くのだ。
 
時間や年齢だけではない。男や女といった概念もまたのっぺらぼうな世界を区切ったものでしかない。動物たちであれば、自分がオスであるのかメスであるのかを意識することはなく、ホルモンの働きや周囲の個体・環境との相互作用の中で行動が決まっていく。しかし、人は、男女を区切ることで男としてのありかた、女としてのありかたが決められていく。
 
海や川、空や大地という概念もまた同様である。動物たちにとっては、そこにあるそのままの存在だ。言葉を持った人は言葉によって意味づけを行い、他者と共有してしまう。動物たちが見たり、感じたりする世界とは既に違っているのだ。言葉は、私たちの意識を遠くへ幻想へと誘ったり、私たちの生き方を特定の枠組みの中に入れこもうとするばかりで、いまここにいる私たち生命そのものには重きをおかせないようにしてしまう。
 
人間は言葉を持ったおかげで宇宙の真理を探ることができるようになった。しかし、言葉によって明かされる真実は、究極的には、私たちが生物として生きる上で何の意味も持たない真実である。宇宙がいつ作られようが、素粒子が存在していようが、遺伝子が命を伝えていようが、私たちの命とはまったく関係がない。むしろ、そんな真実を追究すればするほど、私たちは生きることから遠ざかっていく。
ジョン・ゼルザンのような原始主義者(primitivist)は、われわれを仲介なき純粋経験から切り離しているとみなされるものを除去しようと試みて、ほとんどあらゆるものを抹消してしまう。ますます影響力を持ちつつあるゼルザンの仕事は、言語、数学、時間分節、音楽に加え、あらゆる芸術/表彰形式を拒絶する。それすらすべてを疎外の形態として非難した挙げ句、残されるものは、存在しえない類の進化論的理想なのだ。真に疎外されていない人間とは、もはや人間でさえない。一〇万年前に生息していたかもしれない、ある種の完璧な猿である。(『アナーキスト人類学のための断章』135ページ)

ここで、ゼルザンの主張は、ありえないものとして退けられているが、 言葉のない世界における生命のあり方、特に概念を他者に伝えることの難しさについて考えていけば、ゼルザンの主張はまっとうなものとなる。概念を他者に伝えることが難しいからこそ、惑わされることや期待すること、無駄に我慢することもなく、地上の生命を生き残らせてきた法則に身をゆだねることができるのだ。言葉のない世界こそが生命にとって本来の世界である
 
私たちが言葉を持ったことは、やがてこのような社会を形作ることを意味していたかもしれない。ゼルダンなどが、言葉の無い状態こそ本当だとどんなに主張したところで、それは絵空事であるかもしれない。しかし、厳しい環境に暮らして、餓死の仕方や凍死の仕方を知るという『子どもの文化人類学』に描かれたヘアー・インディアンの世界は、言葉を持ちながらも生命の法則に従うことができる可能性を示してもいる。