「野生の介護―認知症老人のコミュニケーション覚え書き」三好春樹 (著)(雲母書房 2015年11月)
生活者の知恵と、学問の知恵は違う。実践者の知恵と、思索に生きる者の知恵は違う。文明が進むほどに乖離していく、前者と後者。その意味を問う。
寂しい老人の相手をして熱心に傾聴する自分に酔いしれるボランティアの女性。相手の返事も聞かずに「今夜は私が担当よ」と老人たちに声をかけて回ることで、単に周囲にそうした積極的で親切な自分をアピールしているだけの介護職の女性。食事の遅い老人に「ゆっくり食べていいのよ」と声をかけることでかえってせかす職員たち。
著者の三好氏は介護の現場に41年に渡って身を置き、何冊もの著作を送り出している。この本は、三好氏から介護職と介護関係者への<遺言>のつもりで書いたのだと「はじめに」に記されている。『野生の介護』という題名は、本書で何度も登場している社会人類学者レヴィ・ストロースの著作からとられている。調べてみると『野生の思考』という本がそれであるようだ。
『野生の介護』と名付けられたこの本には、具体的な事例に基づく知見が多数収録されている。その多くは、私にとって共感できるものであった。
いくら介護現場で老人に直接関わっていたとしても、ストーカー的精神構造から解放されない人もいる。<人権>とか<ヒューマニズム>といった理念の側から老人を見ている人たちにそういうタイプが多い。(30ページ)
つまり、ストーカーと同じように、自分勝手な老人観を作りあげ、そうした自分自身の老人観の中で自己完結した世界にいる人たちのことである。最初に上げたボランティアの女性もそうである。
三好氏は、鼻から入れられたチューブを抜いてしまおうとする認知症老人について、快楽原則に従った行動なのだから当然のことだという。むしろ、そうした老人に鼻からチューブを入れてじっとさせておこうとする医者の処方のほうが、見当識障害なのである。そうした治療を行おうとする原因は、近代科学が客観性に根拠を置き、医者の処方を客観的に正しいものとしてしまうからなのだと指摘する。
カースト制度についての見解も、私の共感するところである。多様で異質な人間同士が共存することを迫られたとき、たとえ問題を秘めていたとしても、カースト制度を取り入れることがそれを可能にするというのである。海の民と山の民が共存する例が、『日本の長寿村・短命村』や『人間は何を食べてきたか 第5巻』のロンバタ島の回に登場する。一方で、ヨーロッパは中東やアフリカからの移民を異質なものとして排除する方向に向かっている。ここに、理念が破綻につながり、実践が持続につながる現実がある。
他にも、世界で起きる事件の責任は自分にあるという妄想を抱いて自分の頭を殴り始める女性の行動を止める方法や、入所して間もない老人の入浴拒否は「自分に絶望しているから入浴などどうでもよくなっているのかもしれない」と仮説を立てることで、問題が解消したり、軽減したりする理由に関する考察など、貴重な多くの知見を得ることができる。
たくさんの優れた本たちに言及されている点も本書の価値を高めている。哲学者バタイユの思想は、介護体験に基づいている。バタイユの父親は、梅毒のために視力を奪われ、脊髄癆を患うようになっていた。多感な少年時代にこの父の排泄介護を体験したことが、人間は決して理性的存在ではなく、彼の父親がそうであったように、反理性、非合理性、狂気まではらんだ存在なのだということを教え、バタイユは西欧的理性や物質文明を信用しなくなったのだ。この記述を読んで思い出すのは、『森の猟人ピグミー』で、狩猟採集者たちの生活に触れて、黄金の老年期の存在を信じたコリン・ターンブルが『ブリンジ・ヌガグ』で極限状態にある人間の反理性的行動をも描いたことである。
本書で紹介されている本の中には、人類学分野の本も三冊含まれている。『ピダハン』、『グアヤキ年代記』、『ロストシティZ』である。神の存在を否定し、直接見、聞き、感じたことだけを語るピダハンのあり方は、介護の現場に生きる人々のあり方に近いものなのである。
私の認識する限り、文明社会は、理性的ならざる人類が言語という道具を得ることで、真実の姿とは程遠い理念(理性や客観性)を前面に出すことによって、特定の勢力に好都合なように制度を定めて作りあげられている。この本にそうした記述はなく、どうあることができるのかという議論はほとんど展開されていない。それでも、理念にではなく、実践に生きることから見つかる知見は、こうした巧妙な支配の存在を明らかにすることにもなっている。
人間は動物を脱却したのではなくて、その動物性を人間の中にもていて、共同体のなかで増幅しているのではないか(127ページ)
内容の紹介
介護現場を見てみよう。アイデンティティを確立している高度な専門家ほど、認知症老人とのコミュニケーションはとれていないように見える。一方的に診断し、薬という化学物質の力でコントロールし、監禁し抑制する。
それに比べて、母性で関わろうとする介護職や家族のほうがはるかにコミュニケーションがとれている。しかし、母性の豊かさはアイデンティティと対立的である。近代的な自立を目指すような女性ほど、自らの母性との間で葛藤を抱かざるを得ないのではないだろうか。
では、私たちが認知症老人とのコミュニケーションの可能性を拓くにはどうしたらいいのか。アイデンティティを捨て去って、つまり近代人であることをやめて、より原初的な母性的人間になるべきだろうか。
それは暴論だ、と反応しないでほしい。現場にいる人は知っているだろうが、その場、その場、そのとき、そのときに、そうした関わりが無数に生まれているのだから。そうした介護職や家族の無意識な関わりが認知症老人を支えているといっていい。しかし、それらはほとんど語られることはなく、もちろん記録もされない。 – 130-131ページ
私は、人の本来の在り方をテーマに本を読むようになって、人は動物であり、生き物であるということを強く意識するようになりました。人は動物とは違うのだから、動物と同じであってはいけないと考えることもなくなりました。実際、人は動物であることしかできず、そうあってはいけないという教えは、人の経済的価値を高めて上前を撥ねたい人々の教えていることなのだと思えてきました。客観性や、アイデンティティ、自立などという言葉も、同じ文脈の中で理解するほうがよい言葉なのではないかと思っています。
セコいアイデンテイテイ
認知症老人のコミュニケーシヨンについて私は述べてきた。しかしそれは、気がつけばコミュニケーシヨンを困難、あるいは不可能にするものは何かという問題を語ることになつてきた。
つまり、コミュニケーシヨンとは、上手、下手といつた問題ではないということだ。もちろん、 ハウツーをマス夕ーしたり練習したりしてコミュニケーション技術を向上させるということて もないのである。
むしろ、現在の社会では、コミュニケーション技術のうまい人なんていうのは信用できない。そうした人は人を支配し、コントロールして高い物を売りつけようとか、自分の金儲けの手段にしようとしている人だと思って間違いない。- 129ページ
普段の生活では、言葉について深く考えることはあまりありません。けれど人間の本来の生き方を考えようとすると、人間だけが持つ、事細かに表現でき、抽象概念を生み出すことができる、言葉について考えざるをえなくなります。ブログ記事「言葉が「明日」や「昨日」を作り、「大地」や「大空」を作る」で私が表現したかったのは、言葉を持っているがゆえに、かえって本来の姿が見えなくなっているという事実です。そういった意味では「母性」という言葉もまた疑ってかかる必要があります。けれど、多くの言葉を必要としているのは、言葉によって本来の状態とは異なる状態を作り出したいという者たちであることは事実でしょう。学校もマスコミも法律家も、言葉のそういった機能に目をつけた者たちが作った機関であるということができそうです。
ちなみに、南米に侵略したョーロッパ人は、ある部族に〈食人〉の習慣があれば、その部族は絶滅してもかまわないと考え、虚・実の情報によって彼らの広大な土地を取りあげた。しかしそ の〈食人〉には、意味があるのだ。
レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』の中で、〈食人〉と〈食人忌避〉は、じつは同じ宗教的心性を根拠にしていると論じている。〈異質〉なものを〈異文化〉としてとらえる文化相対論の真髄ここにあり、である。つまり、彼らグアヤキ族の〈食人〉よりも、さらに残酷な人類の最大 の犯罪とは何か、という大きなテーマをそこに読み解くことができるのだ。
『私は、人類の最大の犯罪とは、人に命令し服従させて、戦争と死刑という殺人を強制する国家を私たち文明社会の側がつくったことだと考えている。『グアヤキ年代記』を読んでみると、国家の形成は歴史の必然ではないことがわかってくる。そしてそれを廃絶する道をつくること、それが人類の課題だと、私は思っている。-152ページ
ここでは、文化相対論から国家を作ることを犯罪であるとする見解が提出されています。私たちが学校教育よって教え込まれる知識に基づくならば、明治維新は日本を近代国家に生まれ変わらせ、人々は選挙権を与えられて、封建的な社会を脱して民主的社会へと動き始めた出来事でした。けれど、受け付けられた知識を脱ぎ去って歴史を分析してみれば、現実に起きたことは、中央集権国家が自治的な生き方を奪い取って、経済最優先で動くことのできる社会を作り上げたに過ぎないということが見えてきます。あらゆる価値観をそうした視点から洗いなおしてみる必要があるのです。
あの評判の悪い力ースト制度についても論じられている。もちろん、人権無視もはなはだしい 前近代的制度だ、といった型通りの論とはほど遠い。
インドは日本の十倍近い人口と、数え切れない民族と言語、そして複雑多岐な宗教を抱えた国である。しかも、この本の記述によれば、インドの二十八の州の一つのベンガル州は、レヴィ=ストロースがフィールドワークをしたことのあるブラジルのマッソ・グロッソ州の三千倍の人口密度だという。
こうした状況で社会が成り立つにはどうしたらいいか。彼の説(「16市場」)は、「〔ある〕思想家たちの天才」が「人間集団を、彼らが並び合って生きてゆく」ためにカースト制度をつくったと いうのだ。「カーストが異なっているが故に平等であり続ける」「みな人間として、だが違ったも のとして、互いに認知し合いながら共存すること」を目指したのだという。
だがそれは「人間という種の一部に人間性を認めない」という「身分制度」へと転化してしまった。彼はこのことを「インドの大失敗」と呼んでいる。
だがここからがすごい。この試みは「南アジアがー千年かニ千年、われわれより早く経験した ものであり、われわれも余程の決意をしない限り、恐らくそこから逃れられないだろうと思われるのである」と。多様で異質な人間同士がどう共存して生きていけるかという課題は、これからヨーロツバが直面するというのである。
ヨーロツバでは中東からの移民への反発が強まっているし、アフリカから押し寄せる難民へ の対応も意見が割れている。このままでは「インドの大失敗」を繰り返すどころか、異質なも のをそもそも受けつけず排除することになるかもしれない。差別しながらも包摂して共存する 、カ—スト制度と、どちらが人間的であろうか。-163-164ページ
『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』には、「「鎖国」から「開国」につながる流れにおいて、江戸幕府を一方的に悪者にする歴史叙述は、欧米列強にとっても薩長にとっても都合のよい歴史である。」という指摘があります。私が、人間の本来の生き方を探っていて思うのは、生きるという行為自体が不合理で、非人道的であるのだから、それを前提としなければどうにもならないということです。そうしたどうにもならない部分を問題視してそれを口実に侵略行為を正当化するという行為が西洋文明によって繰り替えされてきたのが現代ではないでしょうか。どうにもならない部分とどう向き合うかという視点から、考える必要があると私は思います。
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