「ことば」の課外授業―“ハダシの学者”の言語学1週間 (新書y) 新書 – 2003/4 西江 雅之 (著) 、洋泉社

2019年6月28日

ニューギニアには色を表す単語といえば、黒、白、赤に当たる三色しかない。しかし、人々は極彩色の仮面を作る。

「ことば」とはなんでしょうか。音節を持ち未来や過去、遠方を指示できる言葉を持つのは人間だけです。それでいながら、「ことば」の本質について考える人は極めて少ないように思えます。

1937年生まれで、兵庫県で疎開生活を送った幼少時に植物や昆虫を食べていた著者は、実際に言語が使用される各地に赴いて現地の生活に溶け込み研究するスタイルから「ハダシの学者」と呼ばれました。文化人類学者でもあります。

「はじめに」には、紙の上に書き取った言語要素(音声の種類、単語、句、文など)や、要素と要素の関係、単語の歴史などを研究する言語学には、話者の姿や、ことばとコミュニケーションの関係などが抜け落ちているとあります。そして、この抜け落ちた部分にまで視野を広げた一週間の課外授業として語られた内容がこうしてまとめられました。

たとえば、電話を受けたとき「もしもしお元気ですか」と聞こえたとしても、それが真夜中の2時に見知らぬ男性から若い女性に宛てられたものであれば、不審を抱かざるをえません。つまり、「ことば」はそれが用いられる状況を勘案しなければ解釈できないものなのです。

「いま池袋でこんなことをやっている」とか「十日前にこんなことがあった」といった内容を音声によることばだけで伝えることができるのは人間だけでもあります。ここに、言葉によって概念を規定することによって、初めて「日数」とか「あの場所」という情報を伝え合うことが可能になることを知り、言葉による概念の共有が、私たちの生き方を規定しているのだという事実を読み取ることもできます。

たとえば、ベルギーのワロン語は、フランス語と変わるところはないにも関わらず、別の言語として数えられています。極端な話をすれば、すべての個人が別々の言語を話しているということさえできます。

ニューギニアには色を表す単語といえば、黒、白、赤に当たる三色しかありませんが、人々は極彩色の仮面を作ります。つまり、色を表す単語の数が少ないからといって、色に無頓着な文化であるとはいえないのです。

著者は、学問は尻拭いであって、みんなが認めるような現在までの部分での置き換えをするのが学問であるといいます。辞書の「鉛筆」という項目には「中に芯が入っていて文字を書くとき使う道具の一種」とでも書くしかなく、「人を突っつくと痛がるような面白い道具」とは書けません。

本書には、このような話題が7章に分けて展開されています。

無文字社会に関しても面白い記述がありました。
時間とか空間という非常に重要な二つの要素を見ても、文字社会は書かれた言語資料を基本にして物事を処理していく。ところが文字のない社会では、情動とか価値といったもので序列をつけたり、物を組み立てたりする傾向が強いんです。
これは、言葉を使うことではなく、文字を使うことの影響になります。私たちは言葉や文字という道具を使用することによって、思考や社会制度の構築といった点で大きな影響を受けている存在なのであるとわかります。

ちなみに、著者は、「人間だけがちぐはぐだ」として、猫がゴロゴロ言って目はすごく喜びながら尻尾だけピンと緊張しているというのはありえないとしていますが、どうでしょうか。私は動物もけっこうちぐはぐなのではないかと猫たちと暮らしながら感じています。本書には、こういった違和感を感じる部分も散見されました。

同著者による『異郷 西江雅之の世界』も面白そうです。『新「ことば」の課外授業 』が出ています。