「トウチャン一家と13年―わがアマゾン (朝日ノンフィクション)」関野 吉晴(著)(朝日新聞社 1986年10月)

未踏破地に生きるマチゲンガ族家族の伝統的な暮らしと文明化の過程は人類史の縮図だ

1972年、文明の波をかぶったアマゾンに、わずかに残された未踏破地があった。そこはインカの遺跡が眠っていると噂される地でもあった。そうした情報を得て、その直前文明化されたアマゾンから帰り目標を失っていた著者に新しい目標ができたのだった。

この地に住むマチゲンガ族は、わずかに農耕を行うもののほぼ狩猟採集生活に近く、獲物が減ったり、危険が迫ったりすれば移動する遊動生活を送っている。その点で、本書に描かれている人々の暮らしぶりや価値観は、『人類史のなかの定住革命』に描かれた「悪しきものの一切から逃れ去り、それらの蓄積を防ぐ生活のシステム」の実例であり、『アフリカを知る事典』の「狩猟採集」の項に描かれた利己主義者たちの作る平等社会の実例になっている。

たとえば、子どもは10歳にもなれば1人で生きるだけのスキルを身に付ける。そのため、横暴な夫といやいや生活を続ける必要はなく、逃げ出すことができる。

たとえば、女を巡る争いがあっても、場所を移動することで決定的な衝突を回避することができる。それが可能なのは、土地が私有されておらず、好きな場所に居住できるという条件が整っているからである。

さらに、13年の歳月の間に子どもたちが次々と文明地(シントゥーヤという教会と、著者が収容所とも表現しているわずかばかりの家の建つ村)に旅立ち、親たちも川の下流に移り住んで文明の影響を受け始めるという過程を描いた点も注目すべきだ。人々は快適さや利便性を望んで文明を受け入れていくが、同時に文明(教会)側も医療や教育という善意を旗印にしながら銃を与え、毛皮を買い取り、金を与えることで、生態系の破壊を推進し、自立した伝統的な生活を奪っていく。

そもそも、先住民たちはあるいは虐殺され、あるいは新しい病気に侵されて多くが死んでいった。残された者には、文明を受け入れるか、アマゾンの奥地に逃げていくしか道はなかった。マチゲンガ族は逃げるほうを選んだのであった。そして、今、教会が建てられ、生物保護区が作られて逃げ道を失ったのである。

ここに、利便性や快適さを求めることで、自由を失い、生物の多様性を破壊していくことになる、人類の歴史の縮図が描かれている。

さらに、インカ帝国とマチゲンガの関係にも言及があり、この本全体が、長大な物語のように思えてくる。

私にとっては、『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』に次いで大きな発見となった本だった。

内容の紹介

 

森を駆けまわる素っ裸
  大人たちの足の裏は、まるで軽石のように硬くなっている。細いとげが挑戦しても刺さらない。逆に折れてしまう。ところが太いとげが刺さると、苦痛は倍増してしまう。皮膚が硬いためとげが抜けないのだ。そういう時、大人はあわてることなく静かにナイフをとりだす。とげの刺さった部分とその周囲の皮を削り始める。まるでプラスチックを削っているようだ。踵や指の裏の一部は筋をいれて焼いた魚の皮のように深くひび割れて、痛々しい。五ミリほど削ると血がにじみ出てくる。しかし彼らは落ちついて、微笑みをうかべながらとげを引っぱると簡単に抜けた。傷口の消毒もしない。もちろん、包帯も絆創膏もない。「痛くないのか」と尋ねると、「痛いさ」といいつつ、いつもと同じ顔で何でもなかったように歩きはじめる。 – 49ページ

「ネパール 裸足」でGoogle検索すると、いつも裸足で歩いている人の足の写真が見つかります(『家畜になった日本人』をきっかけに見つけました)。この話を読んでまず思い出したのがこの足でした。私も2年ほど、春から秋にかけては裸足にサンダル履きで外出しています。足の皮膚がだいぶ厚くなり、日焼けもしました。


もう一つ思い出したのが、父の指に刺さったとげを抜いたとき、父がほとんど痛がるそぶりをみせなかったことでした。いずれにせよ、こうしたたくましさが本物だと私は思います。

 

  マチゲンガ族は人が死んでも土中に埋めるか、川に流して肉食魚に食べさせる。涙は溢れるが祈りはない。特別の儀式もない。残った人々は住む場所を移り、遺品はすべて処分してしまう。
  赤ん坊が生まれる時も、母親は家の片隅でほかの女たちに助けられて生み、自分で竹で作った刀で臍の緒を切る。祝い事はいっさいない。 – 67ページ

墓、結婚式、葬式の立派さを競い合い、法事を繰り返す私たちのあり方は、きっと本当は不自然なのでしょう。

 

(マチゲンガ族の摩擦解消法)
  マチゲンガ族の間では、摩擦やいざこざが表面化することはめったにない。衝突や事件が生じるとすれば、このように女をめぐっての恋のさやあてが原因である。警察もなく、裁判所もない彼らはどうやって紛争を処理するのか。彼らは与えられた財産を有効に使う。つまり時間と空間だ。この財産を彼らは誰よりも豊富に持っている。彼らとって時は無限であり、彼らの前には全く人気のない密林がはるかかなたまで続いている。対人関係で問題が怒れば、彼らは一定期間、離れて住むことによって問題を解決する。
  マチゲンガは楽天的で過去にこだわることはない。しばらくの間離れて生活し、ほとぼりがさめれば再び一緒になごやかな共同生活を始めるのだ。紛争当事者が、時間と空間による隔たりをもつ。この方法によって、敵対関係を一時的なものとし、決定的なものになることを避けている。駆け落ちの場合も、長い年月が経つと、その既成事実は認知されてしまうことが多いという。 – 107-108ページ

こうした解決策は、弁護士を立てて法廷で争う方法よりも本質的なのではないでしょうか。少なくとも、理屈を通す方法などいくらでもあり、法律をつくることは、結局は金や権力がものをいう結果をつくりあげているのではないでしょうか。

 

(交易について)
パウロ、カルロシとトウチャン一家の行っているプレゼントごっこは、交易の最も原始的な形かもしれない。ここでは、アンデス各地の村の広場の定期市以上に、取引の品物それ自体の価値よりも、交易により人間関係を深めることのほうが重視されているように思えた。 – 157ページ

交易のイメージというと、口の立つ商人どうしのやりとりがあって少しでも有利に取引を使用とし合うものというイメージを持っていましたが、こうした本を読むようになって、それだけではないことを知りました。