「治療という幻想―障害の医療からみえること」石川 憲彦 (著)(現代書館 1988年2月)
優生学、カトリシズム、母体の健康…、人道主義、イデオロギー、権力…。現場から見る問題点。
→目次など
本書では、古典的な医学では洋の東西を問わず、人間の豊かな自然治癒力を信じ、それがより良く機能するようにささやかな手助けをするのが治療だという考え方が共有されていたとします。そのうえで、近年の医療技術の進歩によって、あたかも直すことの偉大な力によって、直りが生み出されるといった錯覚が生まれ始めていると続けます。この錯覚によって自然治癒力を低く見なす治療学が個人の生命力を奪い、人類を危機に追い込むと、少なからぬ人々が考え始めている中で、本書では、障害の医学、それも臨床医学という立場から、この問題を考えてみたいとしてあります。
医療の進歩や価値観の変化は、たとえば、モデル活動を続けたい女性にとって妊娠を治療の対象に変え、体外受精や人工胎盤技術の進歩によってこれを達成しようという方向に進んでいき、モデルに限らず妊婦特有の症状すべてが治療の対象となっていきかねないと著者はみます。
障害の現場からの立場では、たとえば、てんかんを生の営為として位置づけ、発作を鎮めるのではなく、「発作があってもいいじゃないか」と考えるところに「直り」はあるといいます。たしかに一部の発作は死につながりますが、だから薬で抑えることができればそれでよいのだとはいえないといいます。
しかし、第一節で述べたように、発作は誰にでも起こり得る脳の自然な現象の一つである。自らのなかの自然な可能性を存在しないこととしてのみ、他の安全な子どもは存在を認められる。 つまり、てんかん者が自分自身をさらけ出せない社会とは、非てんかん者も、自分の可能性をさらけ出せない社会である。
また、先天異常を持つと知りながら生むことを選んだ夫婦を例に、優生学的立場から中絶を選ぶこととも、母体保護の観点から中絶を選ぶこととも、カトリック的立場から中絶を否定することとも違う、親と子だけに与えられているはずの自由に権力が介入することの不当性が指摘されています。
今日、病気を直そうとすることは、ひょっとすると悪魔に魂を売り渡すような行為なのではないだろうかと「あとがき」に記した著者は、医療行為そのものが人間にとってとても恐ろしいことがらだったのではないかと考えます。その問いは、農耕そのものが人間にとって誤りなのではないかと問う私の問いと究極的には同じなのではないかと思われます。
著者は薬漬けを警告する立場から2013年にテレビに出演されています。これに対して、バカなことを言う無責任な医者であるとする表面的な批判が加えられていることも予想どおりです。本書もほとんど埋もれた存在となってしまっているようですが、その内容はすべての人に関わる内容であり、権力や科学技術の進歩、宗教、人道主義などに関する根本的な問いを含んでいると考えます。
第六章「直りへの希望」には次のように記されています。
だが、よく考えてみよう。人類が誕生して数百万年。自然神が登場する以前の文化は数万年続いたといわれる。 自然神は数千年にわたって地球を支配した。工業神は数百年の支配をもうすぐ終えようとしている。 こういった、加速された神の支配の状況は、次に来る神は数十年しか支配権を有しないであろうことを予感させる。 つまり、少なくとも、自然神の後押しはなくなるとしても、それに代わる神々もまた、すぐに消えてゆく。
しかもあるがままの身体性は、自然神によってさえ否定されてきたことは想起されるべきである。 本書では、この側面を特に強くは紹介しなかったが、各章の端々にこの点については記したつもりである。 自然神も、直そうとしてきたのである。
直る希望は、こういったすべての神々の死の先に見えてくる。 地球のサイズと、人間が個人であり得るサイズのなかで居直った時、6W1Hを、ありのままの身体性で受け止める共生の仕方は、すでに示されているはずである。 自然神の眼をとおしてではなく、もっと直接に、ありのままの身体性をとおして世界を見ることは、そんなに難しいことではないということを、私たちはすでに共生・共育のなかにかいまみてきた。 ただ、あるがままの身体性への信頼を取り戻してゆくおおらかさは、今のところ、障害者の生き方のなかにより豊かに息吹いており、健常者の方が防衛的であるというあたりに、今日の直りへの居直りの限界が存在しているのだと思う。 – 261-262ページ
おそらく、著者の意図は別のところにあるのでしょうが、私には、私たちが生き物として存在し続けるためには、狩猟採集生活に戻る以外にないと言っているように聞こえます。そのとき、私たちは精霊とともに暮らしていたのでした。
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