「一万年前 気候大変動による食糧革命、そして文明誕生へ」 安田喜憲(イースト・プレス 2014年1月)

東西文明の起源と人類の未来

湖の底に1年に1本作られる「年縞」。
この年縞を調べることにより、欧米で打ち立てられた1万1500年前を最も大きな温暖化への変化であったという編年は、世界標準ではないことがわかった。
大陸氷床の周辺という限定された地域と異なり、日本などでは、1万5千年前の温暖化がより大きな変化であった。
この温暖化によって人々は食料を大型動物に求めることができなくなり、西(ヨルダン)と東(長江)を起点として農耕が始まった。
東の農耕は遅くとも1万5千年前に稲作によって始まり、西の農耕は1万2500年前に麦作によって始まった。
西の農耕(畑作牧畜民)は天水で育つ麦のために森を切り開き、家畜も土地を荒らした。
東の農耕(稲作漁撈民)は水を生む山を守る農業となった。
縄文人は土器を作り旨みを味わうことで、戦争のない精神を得た。
縄文の精神と稲作漁撈民の文化を背景とする日本の精神が、これからの世界を作っていくだろう。

内容の紹介

図8 福井県水月湖の花粉分析結果。1万5000年前の大きな環境変動が記録されている。日本列島におけるヤンガー・ドリアスの気候寒冷化の生態系への影響は、ヨーロッパなど大西洋沿岸に比べて小さかった -36ページ

これまで、地球全体で同じような気候変動があったと考えられていたが、そうではなかったことが示されている資料のグラフです。

現時点で私の立場からはっきりいえることは、ホモ・サピエンスが文明を手にするにあたって、カシ類やシイ類の照葉樹の森の発展に適した、温暖で湿潤な気候条件が、どこかで深くかかわっていたということである。 -69ページ

ホモ・サピエンスが文明を発達させたときの気候条件を分析すると、上記のことが見えてくるということです。

しかし、人類が文明へと突き進むか進まないかという分かれ道を生み出したのは、気候の問題だけではない。もっと大きな分かれ道だったのは、「農耕の誕生」である。人類が農耕を手にしなければ、文明は誕生しえなかった。 -70ページ

日本列島に今日に近い海洋的風土が確立したのはこの九000年前である。縄文人たちはこの豪雪にも対応していかなければならなかった。その対応の結果として、日本海側の豪雪地帯から多く発見されるのが大型の竪穴住居である。 -123ページ

日本海ができ、豪雪地帯が生まれた時期。 縄文土器の分布を見ると、特に豪雪地帯と関連しているように思えます。太平洋側には貝塚がありますが、火焔土器が目立つのは新潟県です。

このように、一万000年前~一万六000年前の東アジアは、草原とレスの堆積する乾燥した大地が広がる中国大陸北部と、森と湿地が広がる長江以南という異質な生態地域が、明白なコントラストを持って分布していた。そして、日本列島は、長江以南の「森の回廊」の北縁に位置していたのである。
この時代、世界の楽園だった森の回廊こそ、新たな時代を創造する定住革命、土器革命、農耕革命といった人類史の革命が次々と起きる舞台だったのである。 -132-133ページ

人類の定住、土器作成、農耕が開始された場所はユーラシアの大陸の東側にあったという話です。

土器を作るということは、これまでのように大型哺乳動物のあとを追いかけて移動するのではなく、一ヵ所に定住して暮らすことを意味する。森の資源は逃げていかないし、魚介類も漁場さえ見つけてしまえば、決まった場所で獲ることができる。
人類が森の植物資源と川の魚介類にタンパク質を求める暮らしを始めたとき、土器作りと定住革命が始まったのである。 -139ページ

草原が森になって定住が始まったということです。

北限の野生稲と食料危機に直面した人類とが出会ったときが、稲作への第一歩だった。 -157ページ

栄養繁殖から種子繁殖へと生き残り策を変えた野生稲の生まれた、冷温帯針葉樹と混合林の分布域の境界付近、長江中・下流域で一万年以上前に稲作が始まっていた。

西アジアの大地溝帯の周辺では、どのようにして麦作が始まったのであろうか。
まず、いつ頃始まったのかということであるが、それはシリア北西部の山岳地帯の麓に広がる低地ガーブ・バレイの花粉分析結果に明示されていた。栽培型のムギの花粉が一万二五00年前の地層から発見されたのだ。私はこのときが麦作の始まりだと考えている。 -165-166ページ

ユーラシア大陸の東西で気候変動期に農耕が始まったようです。

「農耕が気候悪化期に拡大伝播する」というのは人類文明史の公理である。 -172ページ

貧富の差を生む農耕は、気候悪化を背景として拡大しているそうです。

麦作が当初から硬葉樹林文化の発展段階と深くかかわっているのに、稲作はこれまでの認識では年代が合わず、照葉樹林文化の最終段階にしか関係しないとされてきた。
「東洋の文明の揺籃たる照葉樹林文化は稲作と、西洋の文明の揺籃たる硬葉樹林文化は麦作と、その誕生の当初からそれぞれ深くかかわって発展してきたのではないか」
こんな当たり前のことが、これまでの照葉樹林文化論ではいえなかったのである。それはとりもなおさず稲作の起源が五000年前にあるという、誤った事実認識にもとづいたものだった。ところが、稲作の起源は麦作の起源と同じかそれよりも古くなる可能性が出てきたのである。 -175ページ

稲作の起源の誤りが訂正されることで、気候変動と農耕のつながりがはっきり見えきます。

人間は、生きるためにはタンパク質を摂取しなければならない。稲作農耕民はそのタンパク質を魚介類と野生の動物に求めた。これにたいし、麦作農耕民のタンパク源は家畜のミルクと肉だった。 -176ページ

ゴリラやチンパンジーがほぼ果菜食に近いことを考えると、この考察は再考の余地があるかもしれません。

地球環境問題は、畑作牧畜民の文明原理が作り出したものであるといっても過言ではない。森を破壊し、人間と家畜以外の生きとし生けるものの命を奪うライフスタイルに起因しているところが大きいのである。 -184ページ

この見解に賛成できるかどうかは別として、仮説として考えてみる必要があるかなと思います。

農耕の誕生が土器を生んだのではなく、むしろ、土器の誕生が農耕の誕生に深くかかわっていなのである。土器の誕生は農耕より先だった。西田正規氏はこれを定住革命と呼んだ。それは卓見であった。 -190ページ

最初の土器を発明したのは、西アジアの人々ではなく、森の小動物や海や川の魚介類をタンパク源とする人々だったようです。

縄文人は”旨み”に満ちた料理を食べていたから、一万年の間、人と人が戦わない、戦争のない世界を維持できたかもしえないとも考えられるのである。 -199ページ

土器を用い、海の幸と山の幸をごった煮して食べていた縄文人の食事はおいしかったのではないか、その食が、「人殺しの道具」の出土しない平和な縄文時代の背景となったのではないかという。

なぜ縄文人は、この美しい大地を守りながら一万年以上もの間、ずっと同じライフスタイルを続けることができたのか。そこには素晴らしい工夫があるはずである。むしろ自然を一方的に搾取して、その上に巨大な文明を作っていくほうが簡単なのではないか。 -212ページ


これは私も全面的に同意する点である。今の文明の何かが決定的に間違っているから、ガンとアレルギーに溢れ、異常気象が頻発し、遺伝子の汚染と放射性物質の大量放出まで引き起こしたのであるという結論を出さざるをえないでしょう。
少なくとも、私たちより、長い期間地球環境を破壊しなかった人々から学ぶ姿勢は必要なのではないでしょうか。

縄文時代の人々が、同じ生活のメカニズムを維持し続けることができたのは、縄文人たちが、命と地球に対する畏敬の念、祈り心を持っていたからだというのが私の意見である。 -216ページ

もしかしたら、畏敬の念というよりは、単純に人間と他の動物や植物を区別しなかったためかもしれないと、今の私は考えています。

マルサスの『人口論』が、市場原理主義を作った元凶だと金子普右氏は指摘した -219ページ

『資本論』、『社会契約説』、ケインズ経済学など、闇の権力者たちは、自分たちの都合のよい理論を広めるための本を書かせ、これに権威を持たせて世界支配に利用してきました。
だから、権威主義に陥ること、名作と呼ばれる書物を受け入れることは、不幸の始まりであると言えるように思います。

縄文時代は人間のエネルギーを投入する方向が違った。
現代は、いかに早く効率よく資源を搾取し、それを利用して、いかに早く移動し快適に暮らすかということに最大の価値をおいている文明である。
ところが縄文時代はそうではなかった。幸福の価値が違った。縄文人にとってもっとも重要だったのは生命が誕生し、そして成長し、やがて死を迎えるということだった。それを根幹に、価値観が形成されていた。 -220ページ

縄文人によってもっとも重要だったことは、ピダハン同様、日々に集中し、楽しく過ごすことだった可能性もあるように思います。

命を畏敬し、美しい自然のなかでゆったり生き続けることを、”怠惰”だといってきたのが現代文明なのである。しかし、今やっと、その見解が、おかしいのではないかということに、私たちは気づき始めたのである。 -223ページ

逝きし世の面影』では、産業革命以降、世界中でこのような価値観による暮らしが破壊されたといい、陰謀論的に見れば、国際資本家たちや、ユダヤ教とこれに乗っ取られたキリスト教が世界の人々からこのような生活を奪っていることになるのでしょう。

しかし、文字を持たない人は、文字よりも大切にしたものがあった。それこそが”言霊”だった。文字を持たない人は、文字よりも”言霊”を大切にした。 -224ページ

あわいの力』や『ピダハン』と共通する内容のように思います。
おそらく言霊といわれていることの中には、言葉で直接伝えられないことを伝える方法として、何度も口伝するうちにそのときの表情や息遣いなども含めた情報を伝えることにより、やがてすっと腑に落ちるときが来るということなのでしょう。

こうした倭人や倭族は鳥越憲三郎氏が指摘するように、長江以南に暮らしていた稲作漁撈民の総称であった。 -230ページ

日本人になった祖先たち』によると、山東、遼寧、韓国、本土日本人のミトコンドリアDNAはほとんど差異がないそうです。女性を中心とする稲作漁撈民が倭人の本体であり、日本だけでなく黄海沿岸に広く分布していたようです。
このことと、Y染色体の分析から得られる、日本人(特にアイヌ)とチベット人に共通するハプロタイプDの分布(中国・朝鮮との共通性がない)を勘案すると、北方から日本列島に入った人々がこのグループであって、もともとの縄文人を形成していたところに、倭人として列島に到達した女性たちが混血して原日本人が形成されたように思えます。

父権主義に立脚する漢民族の人々にとっては、女性中心の倭人の社会は動物以下の卑しい社会だったのである。魏志・東夷伝・倭人には、畑作牧畜民が稲作漁撈民の社会を蔑視する姿勢が明白に語られている。なのに、そのことを問題にした邪馬台国の研究者はこれまでいなかった。 -230ページ

倭人を稲作漁撈民とすることはまだできないかもしれないと思います。

日本の精神世界は、縄文時代とつながっている。 -241ページ

日本人は支配階級と被支配階級に分かれた歴史を持ち、大部分の日本人を占める被支配階級には、縄文人の血が濃く残っているのかもしれません。けれど、焼き畑農耕民の祖霊信仰を日本人の信仰心の原型であると考えてみると、縄文時代からのつながりは幻想になってしまうかもしれません。

金中心の世界を構築したのは、金融資本主義であり、それを発展させたのは近代ヨーロッパ人だった。しかし、そこには人類の不幸があった。お金が生命以上の価値を持つようになった。 -255ページ

陰謀論的に考えるならば、ほんの一握りの人々が、宗教をのっとり、国家をのっとって、世界を操っていることになると思いますがどうなのでしょう。