「はだかの起原―不適者は生きのびる」島 泰三(著)(木楽舎 2004年9月)
ネアンデルタール人はチンパンジーのように毛むくじゃらで、言葉も持たなかった
→目次など
ネットでネアンデルタール人の画像を検索する。現代人と比べて少し毛深いくらいでほとんど変わらない様子の復元模型が見つかる。しかし、本書によれば、ネアンデルタール人までの人類は他の類人猿同様の毛深い野生動物であったようである。 しかも、言語能力と体毛の喪失は同じタイミングで起きたと推測されている。
本書の議論の展開は、目次を追うことで再確認できるほど、明快である。
ヒトの裸の皮膚が自然淘汰で生じたとは考えられないということをまず説明し、次にダーウィンの進化論、『種の起源』に見られるダーウィンの理論展開の穴が指摘されている。次いで、性淘汰と裸とを結びつけるダーウィンの議論を否定してダーウィンと決別している。
続いて、現存する裸の獣たちの共通点をさぐり、特別な裸の獣たちに目を向ける。さらに、裸体化仮説を検証し、人類海中起源説には1章を割いてある。
ここまできて、裸体化と言語能力の獲得という二つの変化が重複して起き、しかもそれが現存種のみに起きたことであると推測されている。 裸体で生き残る条件として、火と家と着物を挙げ、北京原人の火の使用や家の起源を検証したうえで、その分布からネアンデルタール人は裸体ではなかったと推測されていく。
最後に、裸の人類の出現時期と場所を推測し、発生と裸体という二つの形質はいずれも不適であるなかで、現生人類が生き残った理由が探られている。
本書の説が正しいならば、ネアンデルタール人までの期間は野生動物としての期間であり、現在とは大きく異質な期間であると考えることができる。 また、裸体と性を直接関連付けて考える必要もなくなる。
本書が問いかけているのは、裸になり、言葉を持ち、火と家を維持するために社会を必要とするようになった新種の生物である現生人類は、発達した大脳や言語能力を人類の優れた性質であると見なしてよいかどうかということである。 それらは偶然の産物であるが、人は、その日を生きることも、足るを知ることも、他者を利用しないことも難しい存在になってしまった。
本書は、多くの復元図を覆し、人類を考える上で新しい視点を与えてくれる本である。
裸の人類の登場:アフリカの高原から氷河期とともに
今から約二〇~三〇万年前(少なくとも一六万年前よりも前)に、東アフリカの高地で、人類に裸の突然変異種が現れた。
裸の皮膚だけでなくて、彼らの身体には新しい形質があった。それは食べる時には声を出せない不自由な喉の構造であり、大脳の前頭葉の巨大化であり、なにより華奢な体つきだった。
アフリカ高地でしか裸の人間は成立しなかったと、私は考えている。アフリカの低地にはマラリアがある。それは、現代でもひとつの村を全滅させる。だから、低地で裸の人間が生まれても、生き残る確立は非常に少なかったはずだ。しかし、高地ではマラリア蚊はすくない。 – 251ページ
こうして、アフリカ高地で誕生した裸の人類が、分布を広げるきっかけは、氷河期の到来と衣服の発明という大きな事件があったからであると推測されている。
島氏の説には十分に納得のいく論拠があると私は受け止めました。
ブログに関連記事を投稿しました。「◆はだかの起源と言葉と世界観」
2016年7月20日追記:『◆パンドラの種』で人類が極限まで減って2000人ほどになった時期と、衣服を着始めたと推定されている時期がピタリト重なることに意味があると思われます。
追記:
チンパンジーなどを見ると、体毛の消失がある程度始まっているように見えます。もしかすると体毛消失は、脳の容量拡大に伴う熱量放散の必要性など、本書の指摘とは別の要素によって起きたのかもしれません。
しかし、この本でしった、言語能力の重要性は、その後の私の思索に大いに影響を与えています。言語能力の獲得は、一方では、累積的な技術を可能として巨大なエネルギーを動かすことができるようにし、他方では、間接情報の拡散や抽象概念の開発・意図の詳細で具体的な伝達によって、価値観の植え付けと大規模な社会の統制を可能としました。その結果、陰謀論や世界システム論が示すような、救いのない現代文明ができあがったといえるでしょう。
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