「家畜になった日本人――ネパールに学ぶ健康な生活」今野道勝 (著)(山と渓谷社 1982年6月)

ネパールを訪ねて工業化社会の健康の問題をとらえる新しい定点を得たとする著者。指摘する内容は、動物性食品の必要性、ジョギングの危険性、食事制限では痩せられない理由など、30年の時をこえて通用する。

→目次など


この本の著者である今野さんは、九州大学に勤務するなかで、日本人の肉体がブロイラーと同様に家畜化しているのではないかという視点から人間の本来の状態を知りたいと考えました。そこで、工業化の影響が少なく、日本と同じように気候の変化に富み、日本人と同じような人々の住むネパールの人々を調べることで本来の状態を知ることができるのではないかと考えます。

何度もネパールに足を運び、調査団の人々はショックを受けます。歩く姿勢の美しさ、歩行速度の速さ、耐寒力など、江戸時代の日本人はこうであったであろうと思える人々が暮らしていたのです。このような調査に基づいて、一般向けに出版された本書には、出版から30年以上が経過した現在でもまだ十分に広まっていない、重要な情報が含まれています。

特に、当時からジョギングの危険性、砂糖を摂取することの危険性、痩せるためには筋肉質の身体になり、最大酸素摂取量を増やすしかないことなどが、明確に指摘されている点に素晴らしさを感じます。

ネパール人は歩行速度も速く、重い荷物も平気で運ぶ一方で、握力は日本人よりむしろ弱かったり、少し坂になっているだけで自転車から降りて歩くなど無理を避けていたり、目をつぶって片足立ちできる時間は短かったりという、意外に思える事実も見つかりました。これらの事実は、私たちが考えているたくましい身体と、生活に必要なたくましい身体には違いがあることを示しているようです。

ネパール人だけでなく、ブッシュマンやアボリジニなどにも頻繁に言及されており、寒さに耐える能力の高さがどこから生れるのかや、動物性食品と狩猟採集生活を続けてきた人類の関係に関する考察なども行われており、人と食についての新しい視点も与えてくれます。特に、肉食、なかでもポリ不飽和脂肪酸(高度不飽和脂肪酸)を摂取することの重要性を指摘した点は、類人猿たちの食性や、小魚が身体に良い点などの事実とも合致しており、人間の本来の食べ物を考え、普段の食生活を考える上で欠かせない知識といえそうです。近代食では飽和脂肪酸の含まれる食品が多いせいで、ポリ不飽和脂肪酸が少なくなっている可能性があるとも推測されています。

偏った栄養を摂るから太るのだということ、早歩き程度の適度な運動によってしかスリムで健康な体は保てず、食事を工夫しても無駄だということ、効率よく歩くには前傾せず、くびとあごを引いて、脚が後ろによく伸びるようにすればよいということ。この本から学んで、明日からの生活に生かせることは多くあります。

文末の表現が単調で若干気になる点は残念ですが、ぜひとも、一読をお勧めしたい本でした。

私は、この数年間、運命的とも感じる本との出会いがめっきり増えました。『ピダハン』、『逝きし世の面影』、『はだかの起原』『人類史のなかの定住革命』、『イシュマエル』、『森の猟人ピグミー』など、私には人類の将来を左右すると感じられる本たちに頻繁に出会えるようになりました。

この本も、まさにそんな本の一冊でした。昭和30年代から50年代、工業化が進む中で健康がむしばまれていき、多くの人々が問題意識を持って本を残してくれました。『健康であるために―ゴム紐症候群について』、『自然に聴く―生命を守る根元的智慧』、『たかが菜っ葉の話から』、『骨折する子ども―ある学校医のレポート』などの労作が残されています。昭和57年発行の本書も、これらの本と共通する動機付けによっているといえそうです。

内容の紹介(入手困難が予想されるためできるだけ詳しく紹介しています)

 

「美しかった彼らの歩行姿勢」より

  首都のカトマンズに到着した日、夕闇の迫る大通りで私は妙な違和感を覚えました。異国にいる――ただそれだけではなかったのです。
「先生は歩くのが遅いほうですか?」
  一緒に並んで歩いていた緒方教授に、そう尋ねました。それは、私たちを追い越して歩いていく人が、かなり大勢いることに気づいたからなのです。自慢にはなりませんが、私よりも速く歩く人は福岡にはめったにおりません。どうやら、これが違和感の原因らしいのです。
「いや速いほうじゃないかな」
「どうかしたのか?」
「先生、ネパール人は歩くのが速いのかもしれません」
  それにしても、カトマンズの人々の歩く姿は実にゆったりと見えるのです。急いでいるような感じは全く受けないのです。ほとんどの人の身長が、私よりもかなり低いといのに……。 – 16ページ

  歩行能力が劣るということは、単に脚の筋肉だけの問題ではなく、呼吸循環系機能や脳の機能の問題でもある可能使用が高いのです。 – 18ページ

  縄文人のだれもが一日に一〇〇キロ歩けたかどうかは別としても、江戸時代ごろまでは、ほとんどの成人男子が一日に約四〇キロを歩くことができ、それも一日限りではなく、十数日間の長旅ができたと思われるのです。そして、このような能力は日本人だけが持っていたものではなく、おそらく産業革命が起こる前の時代までは、世界中のほとんどの人が保持していたと思われるのです。 – 19-20ページ

  朝もやの中を行くネパール人の歩行姿勢は、予期したとおり非常に美しく、また動作も非常になめらかでした。美しいといっても、それは軍隊調の不自然なものではなりません。絶え間なくゆるやかに流れる小川のようにとでも申しましょうか、手足の動きが実にスムーズなのです。脚は前後によく開かれており、とくに、脚が腰のかなり後ろのほうまで伸びているのが印象的でした。 – 21ページ

 

「距離の単位「スタジオン」」より

  調査が進むにつれて、ネパール人の身長は日本人よりも約10センチ低いことが明らかにされました。しかし、ネパール人の歩幅は約75センチで、日本人よりも約3センチも広かったのです。そして、学生の集団だけを比較してみますと、ネパール人のほうが約6センチも広いという結果が得られたのです。 – 24ページ

  真横から撮影した写真を用いて、耳と肩を結ぶ線と肩を結ぶ線の角度を計測してみますと、ネパール人は10度くらいなのですが、日本人は19度もあるのです。日本人は、かなり頭を前傾させた猫背型の歩行姿勢であることがわかります。 – 25ページ

  水田という人たちのグループは、東京に住む日本人を対象に長時間にわたる歩行トレーニングを行わせたところ、体力の最も優れた指標である最大酸素摂取量が増加し、歩行の姿勢も改善され、歩幅も広くなったとしています。ですから、姿勢良く、歩幅の広い歩き方を長時間つづけるためには、それを可能にする体力という裏づけが必要だということになると思います。そして、このような体力は日常の歩行の習慣によって獲得されるものだと考えられるのです。 – 26ページ

  太陽が地平線に顔を出してから、完全にできってしまうまでの時間は二分です。そして、一スタジオンは、180メートルから185メートルに相当するそうです。
逆に推察すれば、古代バビロニア人の歩行速度は、ネパール人と大差ないものだったということになります。 – 28ページ

 

「山岳民族に見る優れた歩行能力」より

  ある日、大変美しい娘さんがやって来ました。ネパールの女性は概して彫りが深く、美しい人が多いと思います。しかし、その後の調査のときも、この娘さんほど美しい人には会わなかったような気がします。
  この娘さんの年齢は十八歳、体重は三七キロにすぎませんでした。しかし、荷物の重さはなんと六二キロもあったのです。日本にも、スマートで美しい女性はたくさんいます。しかし、このネパールの娘さんのようにたくましくて美しい女性は、いったい何人いるでしょう。
  日本で、とくに都会で調査すると、身長のわりには体重の軽い女性が大勢います。スマートになるために日夜努力しているのかもしれません。しかし、このような女性のかなりの人が、意外に脂肪の量が多いのです。身長のわりに体重は軽くても、肥満傾向にあるといえるのです。
  この「やせ太り」とでも呼ぶべき人たちは、体重が軽くて脂肪が多いのですから、脂肪以外の大切な中身が少ないということになります。もちろん、健康なからだとは考えられないわけです。そして、このようなタイプの人は女性ばかりではなく、男性にも認められるのです。
  一般によく普及している、身長と体重の比から肥満を判定する方法には、からだの中身(身体組成)を問題にしないという重大な欠点があります。しかし、このような方法を用いる研究者が多いためか、体重が軽くても脂肪の多い人が都会にかなりいることは、あまり注目されていないようです。
  あまりにも運動不足の傾向が著しいために、たとえ少ししか食べていなくても、食物のかなりの部分が体内で脂肪に変化してしまうのです。また、運動をしないために、食べたものが身につかず、大切な中身を充実させることもできないのです。 – 34-35ページ

BMI値の落とし穴といえるでしょう

 

「なぜ歩くことにこだわるのか」より

  マサイ族の動物性資質の摂取量は非常に多く、アメリカ人の二倍以上だったそうです。しかし冠動脈性心疾患の徴候や心電図異常はほとんど認められず、コレステロールも非常に低い値だったのです。血圧も非常に低く、年老いてもごくわずかしか上昇せず、高血圧などはほとんど見られなかったのです。
  一般に、動物性脂質を大量に摂取することは、コレステロールを高めたり、動脈硬化や冠動脈性心疾患の原因になったりすると考えられています。そして、日本よりも動物性脂質の摂取量が多いアメリカでは、冠動脈性心疾患による死亡率が日本の八~一〇倍であると考えられています。それなのに、アメリカ人よりも動物性脂質の摂取量が多いマサイ族が、どうしてアメリカ人よりも健康的なのでしょうか。
  マンたちは、マサイ族の体力に注目しました。なぜならば、運動不足の人に冠動脈性心疾患が多いことは、幾つかの疫学的研究が明らかにしていたからだったのです。最も優れた体力の指標である最大酸素摂取量を測定したところ、マサイ族はアメリカ人よりも非常に優れた成績を示すことが明らかにされました。
  しかし、マサイ族は特別なトレーニングを行っているわけではありません。むしろ、戦争などの重大な事件でもない限り、全力を尽くすような動作を避けているのだそうです。 – 36-37ページ

  このような研究結果をもとに、マンたちは次のように結論しています。「心臓血管系の成人病にとって重要なのは、ファットネス(脂肪の摂取)ではなく、フィットネス(体力・運動)である」と。 – 38ページ

  ところで、なぜこのように歩くことにこだわるのかと申しますと、それは「歩くことが最も優れた運動不足の解消法」だからなのです。その第一の理由は、安全だといえることです。ジョギング中の死亡事故の話はよく聞きますが、散歩していて死んだ人の話はまず聞いたことがありません。
  それに、進化の過程で人間が行ってきた主要な身体活動は、長時間にわたる歩行だったと考えられるからです。長時間の立・歩に適した人間の足の形は、そのなによりの証拠です。ですから、歩くという運動には数百万年にわたる歴史の重みがあるわけです。この歴史の重みを、簡単に無理することはできません。
  また、マサイ族の例でもわかるように、歩くことで体力を高めることも可能なのです。体育科教育に問題があるためでしょうか、どうもわが国には運動を激しく行わなければ効果がないと考える風潮があるようです。しかし、けっしてそんなことはないのです。 – 38-39ページ

  また、アメリカのある研究者は、節食によってでは、ほとんど肥満の解消に成功しないという事実に注目しました。そして、摂食による肥満の解消に失敗した人たちばかりを集め、運動によって肥満を解消させようとしたのです。
  運動種目は、個人の好みで選択させたようです。歩行、サイクリング、ジョギング、水泳など、いろいろな運動を行った人がいたようです。しかし、みごとに成功したのは、歩行を行った人たちだけだったというのです。手軽に行えるかとか、調委j間持続できるかといった条件が、このような結果が得られた原因だろうと考えられています。
  また、この研究では、歩行時間が三〇分以内ではほとんど効果が認められなかったそうです。 – 40ページ

 

「ヒトは長距離型の動物だった」より

  ある朝、カトマンズ名物の一つである貸し自転車で、調査地への道を急いでいたときのことです。私の前を行くネパール人の研究協力者が突然自転車から降り、押して歩きだしたのです。
  不審に思った私は、どうしたのかと尋ねてみました。彼は「上り坂だから」というのです。そういわれて周りを見ますと、ネパール人はみんな自転車を押して歩いているのです。たいした上り坂ではないのですが。 – 42ページ

  狩猟採集民であるブッシュマンの著名な研究者である田中氏によると、彼らの狩猟のほとんどは追跡であり、瞬間的に強い力を発揮することはきわめてまれだとされています。毒矢を射たあとは、足跡をたどって動物が完全に弱るまで追跡がつづけられるのです。大型の動物を射た場合には、このような追跡が三、四日もうづけられるといいます。 – 43ページ

  どんな運動が好ましいかと尋ねられたとき、私は散歩とハイキングと答えることにしています。そして、けっして無理をしないようにと付け加えます。足の進化のことが、そして、ブッシュマンやネパール人のことが、どうしても気になるからです。 – 47ページ

 

「足は靴のためにあるわけではない」より

  カトマンズの街で見かける人の約三分の一ははだしです。足底の皮は厚く、古い鏡もちのようにひび割れができています。指もかなり太いようです。 – 48ページ

  それにしても、靴を履いている人は少ないようです。ビーチサンダルを履いた人がかなりいます。 – 50ページ

  草履式のサンダルやげたなどでの歩行は、比較的はだしに近い指の働きを必要とします。最近まではだしで歩いていた人たちには、靴などよりもビーチサンダルのほうが歩きやすいに違いありません。だいいち、足の指の間隔が広がったこの人たちの足に、靴の型が合うはずがありません。 – 51ページ

  歩くのに適した履物を普及させることは、日本人が歩行の習慣を取り戻し、若々しい姿で歩くようになるために、ぜひとも必要なことかもしれません。 – 53ページ

靴やハイヒールをはくということ一つをとっても、不自然な状態を強いられる現代社会の生活とは何なのだろうかと考えさせられます。

 

「山村の人に多い善玉コレステロール」より

  中国との国境に近い北部ネパールに、ジョムソンという比較的大きな街があります。フランスのある調査隊は、このあたり一帯で怖がる住民から無理矢理に採血したのです。一人一ルピーずつ謝礼を払ったようですが、住民たちはその後、外国の調査隊を怖がるようになってしまったのです。 – 68ページ

 

「健康の町・久山町の街づくり」より

  第三次調査を無事に終了させ帰国の準備を始めたある日、私たちはボードナート寺院へ行くことにしました。ここはラマ教の寺で、付近の土産物店にはかなり珍しいものがあります。見学を兼ねて、この調査に協力してくれた人たちへの、ささやかな贈り物を買おうというわけです。
  人骨で作った数珠、頭骨の内側に銀板を張った酒器、大腿骨の笛。気の弱い人なら、目を回しそうな土産物もあります。日本人にはなじめそうもありませんが、ラマ教を信じる人たちにとっては、これらを用いることが功徳を施すことになるそうです。 – 72ページ

  久山町の人々が、ここカトマンズの人々のように健康的に歩ける日を大いに期待したいと思います。「日本のカトマンズ」をつくらない限り、日本人が健康になれるとはけっして思えません。 – 77ページ

 

「握力が強ければ体力もあるのか」より

  福岡市の学生やサラリーマンの握力は、平均四四から五二キログラム程度です。しかしネパール人の握力は、平均三五から三九キログラム程度にすぎないのです。 – 80ページ

  また、最近ボリビアで体力調査を行った長崎大学の平田先生も、現地人の握力は弱いという結論を得ているのです。 – 81ページ

  体格が大きく、筋力が強い人を体力があるとする風潮は、専門的な立場からいうとけして好ましいものではありません。前にも述べましたように、人間は持久力型の動物だと考えられているのです。そして、持久力を高めることは心臓血管系の成人病を予防することにもつながるのです。 – 82ページ

  クラウスという人たちは、腰痛患者についての研究を行っています。そして、五〇〇〇人以上の腰痛患者の約八〇パーセントにはなんらの器質的な障害が認められないが、しかし姿勢の保持に関連が深い筋力と柔軟性の低下が認められることを明らかにしているのです。そして、筋力や柔軟性を高めるためのトレーニングを行わせたところ、これらの成績が向上するにつれて腰痛も消えてしまったというのです。 – 82-83ページ

(写真のキャプション)ネパール人は重い荷物をけっして手に持とうとしない(ノーダラ付近にて) – 83ページ

腰痛の大部分が筋力不足を原因としており、運動によって治療可能であることが指摘されています。

 

「ネパール人の酸素摂取能力」より

  最大酸素摂取量は、世界各国の多様な民族について測定されています。これらの測定値を並べてみますと大きく三つのグループに分類することができます。第一のグループは、成人男子の場合でも平均値が四〇ミリリットルに満たない集団です。顕著な運動不足が認められる工業先進国の人たちや、疾病、低栄養、環境への不適応が認められる発展途上国の人たちがこのグループに入ります。
  第二のグループは、四五~五五ミリリットル程度の最大酸素摂取量を示すグループで、採集狩猟民、機械化されていない農業を営む人たちなど、多くの集団がここに入ります。もちろん、大多数のネパール人もここに入ります。
  第三のグループは、マサイ族、伝統的な生活を営むタラマラス・インディアンやシーズン中のシェルパなど六〇ミリリットル以上の最大酸素摂取量を示すグループです。
  この第三のグループには、少し特殊な生活習慣が認められるような気がします。少なくとも数百万年に及ぶ採集狩猟民としての生活の中には、ジョギングする習慣や重い荷物を背負って毎日山歩きする習慣はなかったと思います。ですから、これほど高い最大酸素摂取量を保持することは、必ずしも必要だとは考えられないのです。
  もちろん、現存するブッシュマン、ピグミーやエスキモーなどの狩猟採集民が、過去の採集狩猟民と全く同じからだであったとの保証はありません。しかし、これらの集団が四五~五五ミリリットルの最大酸素摂取量を保持していることには、やはり一応注目すべきだと思います。 – 90-91ページ

  ところで、最大酸素摂取量は加齢とともに低下するのが普通です。ですから成人男子の場合ですと清掃年なら五〇ミリリットル程度、中高年なら四〇ミリリットル程度を保持することが望ましいと思います。そして、女性の場合には男性の八〇パーセント程度が望ましいと思います。
  しかし、私たちが九州各地で行ってきた研究の結果からは「日本人の八〇パーセント以上が、おそらく望ましい最大酸素摂取量を示さないであろう」と推定されるのです。 – 91-92ページ

 

「虚弱化はすでに若者たちかあ」より

  おそらく、このような警告に対しても、平均寿命が延びているからよいではないか、などといった反論があるかもしれません。しかし、日本人の寿命が延びた主要な理由は乳幼児死亡率や青少年期の死亡率が低下したためなのであって、高齢者の寿命はさほど延びていないのです。 – 96ページ

  最大酸素摂取量の高い人はたくさんのエネルギーを産生することができるわけですから、持久力に富みスタミナがあるといえます。そして、心臓血管系の機能が優れているのですから、これらの機能が低下したために起こる成人病にはかかりにくいことになります。また、最大酸素摂取量の高い人ほどそれだけ活発な身体活動を戸外で行っているでしょうから、暑さや寒さに対する耐性も優れているとされます。 – 98ページ

最大酸素摂取量を適度に上げることの重要性。

 

「知っておきたい「適度な運動」の意味」より

  適度な運動の強度は、最大酸素摂取量の五〇パーセント程度だと結論できると思います。このような強度の運動は、話しながらできる程度のものだといえます。そして少し速く歩くような運動が、この強度に相当しているのでます。今流行のジョギングをしている人たちについて調べてみますと、ほとんどの人たちが最大酸素摂取量の七〇~八〇パーセントに相当するスピードで走っています。かなり危険だと思います。 – 101-102ページ

  ネパール人は歩いています。そして歩くことだけで高い最大酸素摂取量を維持しています。歩くことよりも実りの少ないスポーツ教室ならば開かないほうがよいと思います。ましてや税金など使わないでほしいと思います。どんな市町村にも立派な体育館があるようですが。しかし、それはスポーツ技術の普及には役立っていても、住民の健康づくりにはあまり役立っていないのではないでしょうか。あまり役立たない体育館を何億円も出してつくるよりは、人が歩ける道をつくるほうが、はるかに健康づくりに役立つような気もします。 – 105ページ

 

「繁殖用の豚は運動をしていた」より

  一般に、肥満の原因は食べすぎ(多食)だと考えられています。そして、節食が推奨される傾向にあります。専門書にもこのような間違った考えが書いてありますから、一般の人が信じるのも無理はないとは思います。しかし、私は肥満の原因が食べすぎ(多食)であるという科学的なデータを今までに一度も見たことがありません。 – 106ページ

  鈴木という人は、ネズミが自由に運動できるようにしておきさえすれば、けっして肥満が起こらないことを明らかにしています。自由に運動するネズミは、運動させないネズミよりも三〇パーセントも余分に餌を食べるそうです。それなのに、肥満が見られないばかりか毛のつやなどもよいというのです。そして、運動させないネズミにだけ肥満が見られた、というのです。 – 107ページ

  私たちも、このような風潮を改めたいばかりに肥満の研究をしたことがあります。そして、体脂肪率(体重の何パーセントが脂肪か)と摂取エネルギーは反比例することを明らかにしました。つまり、太っている人ほど摂取エネルギーが少ないという結果を得たのです。 – 108ページ

  血圧や血清脂質などを比較してみると、肥満者は当然のことながら悪い成績を示します。しかし、やせていても、運動不足である人の成績は運動不足でない人よりも悪いのです。このことは、やせていれば運動しなくてもよいとはいえないことを示しています。 – 109ページ

  ネパールでの調査にも参加している福岡工大の安永先生をチーフとするグループは、妊娠や出産に及ぼす生活形態の影響を調べています。妊娠や出産は病気ではありません。ですから、この状態にうまく耐えられるからだやそれをもたらす生活の条件を知ることから、「望ましいからだのあるべき姿や、それを保障する生活の条件」を明らかにしようとしているのです。
  妊娠期間中にいろいろな調査や測定を行っておき、いざ出産というときにはテレメータ(無線装置)を使って、からだの反応を時々刻々と記録する方法が採られています。
  日本で得られたデータをおおざっぱにいうと、いちばん難産なのは、やせ型で運動不足の女性だといえます。そして、この人たちを除くと、お産の負担は体脂肪率に比例して大きくなるといえます。からだに脂肪の多い人ほど難産だといえるわけです。もちろん、いちばん安産型なのは、運動不足がないやせ型の人だということができます。
  また、陣痛促進剤や帝王切開などという方法があるために、最近、日本の女性がうまく出産できなくなっていることは、ほとんど注目されていません。しかし、このことは、ネパール人と比較すると非常にはっきりしてくるのです。 – 110ページ

 

「日本人の血圧はなぜ高いのか」より

  「加齢とともに血圧が上昇する」という工業先進国の常識(?)が、世界中の人々に当てはまらないことについては、前に述べたとおりです。年老いても血圧が上昇しない人たちが大勢いるのです。 – 112ページ

  渡辺という人は、日本人の場合、動脈硬化や高血圧はむしろ低栄養と結びついているとしています。そして動物性食品うんぬんという西欧の研究結果が日本人には当てはまらないというのです。
  私たちが九州各地で行った研究では、血圧と、動物性タンパク質や動物性脂質の摂取量は反比例するという結果が得られています。つまり、動物性食品の摂取量が多い人ほど、血圧が明らかに低いという傾向が認められたのです。 – 113ページ

  私は、生活形態が異なれば血圧に影響を及ぼす要因も異なるに違いないと考えています。そして、もう少し研究が進まないと日本人とネパール人の血圧の差を明らかにすることはできないと思っています。
  それは今まで触れてきたように、栄養や運動などの生活の条件がどのように血圧に影響を及ぼしているのかが、いま一つはっきりしていないからなのです。
  少し例を挙げてみたいと思います。世界各国から得られた研究の結果を並べてみますと、最も血圧が低いのはブッシュマン、ハヅア族などの採集狩猟民と、マサイ族などの遊牧民です。これらの集団には加齢にともなう血圧の上昇もほとんど認められません。 – 114-115ページ

  ところで、採集狩猟民や遊牧民には運動不足の傾向は認められません。それでは、運動不足さえなければいいのかというと、そうもいきません。九州各地での調査によると、確かに運動不足の人のほうが血圧は高い傾向が認められます。しかし、運動不足の傾向が見られない山村の人たちの血圧は、運動不足の傾向が見られる都市の人たちよりも明らかに高い傾向が認められるのです。そして、山村の栄養状態は都市よりも良くないのです。 – 116ページ

  ところで、ネパール人の血圧も採集狩猟民や遊牧民に比べれば高いといえます。そして、これらの集団と最も違う点は動物性食品の摂取量が少ないことだと思います。また、日本人が採集狩猟民と異なる点は動物性食品の摂取が少なく、運動不足であり、さらにストレスがあってもエネルギーを使わないことだと思います。
  ネパール人の血圧を考え、日本人の血圧を考えることは、生活の歴史が新しくなるにしたがって、なぜ人類の血圧が上昇してきたのかを考えることでもあります。そして、ここには高血圧の治療では解決できない問題があるのです。 – 117ページ

 

「まるで違っていた彼らの耐寒力」より

  昭和五十二年の十月、山岳地帯へ向う調査旅行中のことでした。例年ならば雨季が終わっているころなのですが、あいにくこの年の秋は天候が不順でした。毎日の雨と、登っては下り、下っては登る徒歩旅行に、私たちはかなりの疲れを感じていました。
(中略)
この夜、ポーターたちはぬれた服のまま、小さなたき火を囲むだけで寝たのです。私たちなら、きっと凍死したに違いありません。しかし翌日彼らは、何事もなかったように、さらに急になってきた坂道を、また雨にぬれながら元気に歩きつづけたのです。
  私は、アフリカのカラハリ砂漠に住む、ブッシュマンのことを思い出していました。摂氏マイナス一〇度からプラス四〇度まで気温が変化する土地に、彼らは裸同然の姿で生活しているというのです。
  そして、ブッシュマンの体温調整機能を調べた生理学者たちは、たき火のあたり方がじょうずであること以外に、ブッシュマンと白人との差を見いだすことができなかったのです。つまり、ブッシュマンのからだが、とくに暑さや寒さに耐えやすくできているわけではないというのです。 – 119-120ページ

  首都のカトマンズは、日中は福岡よりも温暖です。しかし盆地ですから、朝晩はかなり冷え込みます。山間部の調査から帰ったころの朝の気温はだいたい一五度前後でした。
  ところが、川には沐浴する子どもたちの姿がありましたし、共同水道の周りでは何人もの女性が長い髪を丹念に洗っておりました。日本の子どもや女性ならきっとかぜをひくだろうと思いながら、私たちは首をすくめて散歩したものです。
  一般に、暑さや寒さに対する適応力のうち、基本的なものは三歳くらいまでに形成されると考えられています。ですから、ネパール人の耐寒性も乳幼児のころから徐々に形成されたのだろうと思います。 – 121ページ

逝きし世の面影』に、幼子を抱く父親の様子が描かれています。同じ構図で夏と冬の2種あり、冬でも下半身は裸のような状態です。この絵を見てから、江戸時代の日本人は寒さに強かったのだろうかと考えるようになりました。思い出したのが『人間は何を食べてきたか』のスイカの回です。当時は砂漠だから暑いはずなのに毛糸の帽子や服を着ているのはなぜだろうと考えていました。後に本を読んで、寒い時期もあることを知り、だとしたらかえって寒いはずなのに軽装であることに気づいたのです。南米の最南端に住んでいたヤーガン族やオーナ族も毛皮をまとうだけで裸族とみなされていました。どうやら、人間はかなり耐寒力を養うことができる存在のようです。

 

「なぜか薬がよく効く人たち」より

  「医療援助にいろいろな人がやって来る。中には、治療とひきかえに布教をする連中がいる。ヒンドゥ教が国教であるこの国にとっては、困ることなんだ。こちらの立場でいえば、病苦からのがれたいのか、それならお前の良心を売れ、というのと同じなんだ」 – 126ページ

 

「低下している日本人の視力と聴力」より

  (ネパールの学校で教壇に立ち、暗い教室でも子どもたちには黒板のうすい文字まで見えているようだと記したうえで)私は、台湾の高砂族についての話を思い出していました。高砂族は暗いところでも目が見えるというので、戦時中には活発な生理学的研究が行われたというのです。 – 131ページ

  予備調査から帰って数カ月たったころだったでしょうか。第二次大戦中にビルマ戦線でグルカ兵と白兵戦を演じた経験を持つ人から、その経験談を聞くことができました。グルカ兵は暗いところでも目が見え、また身軽であったために、大いに日本軍を悩ませたというのです。日本兵はグルカ兵を「猫みたいなやつら」と感じたといいます。
  グルカ兵とは、ネパールの山岳民族の一つであるグルン族出身の兵士なのです。そして、当時は英国軍に雇われていたのです。 – 132ページ

  また、「エスキモーの耳はおそろしく発達していて、カリブーが近づけば、その踵の骨のかちかちいう音がはるかかなたからでもちゃんと聞こえるそうだ」とか、「まわりにいた子供たちが、がやがや騒ぎ始めて、飛行機が来た!飛行機が来た!と叫ぶ。ところが、われわれ日本人の方が、いくら耳をすませても、なにも聞こえない。それで半信半疑、きょろきょろしていると、最初に子供たちが騒ぎ始めてから正味三分もたったころ、はじめてわれわれにも鈍い音が聞こえ始め、はるかの空にぽつんと待ち望む飛行機が姿を現したのだった」などという話も、調査隊員の一人であった祖父江という人によって報告されているのです。 – 133ページ

  最近、野生の動物と家畜(動物園などで飼われている動物も含む)との比較から、現代生活を見直すべきだとする評論が目立つようになってきました。たとえば、動物学者の小原氏は次のように述べています。
「ヒトはもう長い間人為環境で人為淘汰を受けてきた。だが、知ってのとおり、ここ数十年は人工物質が充満し、変化は二次環境たるヒトの生活環境を侵し、スピードは目まぐるしく、その変化はヒトの神経系による行動的適応でさえ適合しきれなくなっていると思える」と。
  つまり、ヒトはもともと人工的な環境で生活してきたのであり、そのための淘汰も受けたが、今まではなんとか生きてきた。しかし、最近の急激な変化にはもはや偉大な脳の働きをもってしても、ついていけない状態になってきた、というのです。 – 134ページ

 

「文化と子育ては反比例する」より

  第三次調査に従事するために始めてネパールを訪れた福岡工大の大坂先生は、帰国準備も一段落したある日、「残りのフィルムで教育映画をつくりたい」と突然真剣な顔で言い出しました。
  教育映画とは少々大げさですが、私には彼のいわんとすることがよくわかりました。私も初めてネパールを訪れたときには、やっと字が読めるようになったばかりの息子へ、「ネパールの子どもは、さむくてもがんばります。おかあさんのおてつだいもよくします」と書かずにはいられなかったのです。
  ネパールの子どもたちは、本当にたくましいのです。そして、やさしく、また純粋なのです。なぜなのだろうかと、私たちはいつも考えていたのです。
  ネパールは、食糧不足に悩んでいます。衛生状態も悪く、近親結婚も多い国です。そして、四分の一から五分の一の子どもたちは、成人する前に死んでしまいます。新生児は驚くほど小さく、幼児や児童の発育は日本の明治時代よりもよくないようです。 – 135ページ

  いずれにしろ、日本の子どもたちに比べれば大変に劣悪な成育環境下にあることは間違いありません。しかし、私たちには大変にうらやましく思えることが一つだけ目につくのです。それは、母と子の距離なのです。
  どこに行くにも乳幼児は母と一緒なのです。 – 136ページ

  大家族制であり、多産多死のネパールでは、子どもは大勢の家族に囲まれて育ちます。多くの愛情が注がれるかもしれません。しかし、それは単なる甘やかしではないと思います。その証拠として、子どもたちが非常に早く社会的にも一人前になっている事実を挙げることができると思います。 – 138ページ

  発展途上国を見たことがある人類学者たちは、「文化と子育ては反比例する」と警告しています。子育てについても、やはりネパールから学ぶことがあるような気がします。 – 140ページ

 

「鶏と卵と人間と」より

  最近、鶏肉の味が落ちたとか、水っぽくなったなどという話をよく聞きます。おそらく、鶏の飼育法が変ったためだと思います。平沢という人の書いた『家畜に何が起きているか』という本を読んでみますと、次のような話が引用されています。
  ――(中略)徐々に濃厚飼料多給によるバタリー飼育(棚式の立体飼育)がおこなわれ、比内地鶏特有の味が失われてきたとの声が聞かれるようになりました―― – 141ページ

  ネパールの人のほとんどは、一日二食です。それにからだをよく動かすからでしょうか、一回当たりの食事の量は私たちよりも非常に多いことになります。 – 144ページ

 

「生物学的な不潔と物理化学的な不潔」より

  ネパールの不潔さは生物的な不潔さです。その不潔さは、視覚を通して知ることができます。日本の不潔さは物理化学的な不潔さです。多くの場合、それは五官に訴えるものではありません。 – 152ページ

 

「青い山脈があるということ」より

  ところで、「遊び場がなくなったって室内に運動具があれば」「太陽の光がなくったって電灯があれば」とか、「自然な森や林がなくったってフラワーポットに草花があれば」などという人たちに対して、自然が必要であることを納得がいくように説明することは、容易ではないそうです。しかし、緑地帯が三〇から四〇パーセント以下にまで低下すると、「別の場所に住みたい」という欲求が急激に高まるという事実もあるようです。「人間が住むにふさわしい環境」、それを人間自身はまだ知ってはいないのです。「自然が人間の心身に及ぼす影響」についてもです。これまで行ってきた都市化も、いわば行き当たりばったりだったのです。人間が住むのにふさわしい環境、それは大昔に戻せばよいというものではないと思います。そのような環境に、今日ほど多くの人間が住むことはできないでしょうから。 – 157ページ

大昔に戻すこと以外に選択肢はないと考えて方法を検討することのほうが現実的なのではないでしょうか?

 

「肉体のバランス機能を測定して」より

  バランス機能を測定する方法の一つに、片足閉眼立というのがあります。両目を閉じて、片足で何秒立っていられるかを測定するのです。 – 158ページ

  さて、このテストの成績ですが、ネパール人の平均は三〇秒以下です。これが、福岡市の学生やサラリーマンの場合ですと、一分以上の者が大半です。また、九州各地の農村で得た成績は、ネパール人と福岡市の人たちのほぼ中間でした。おそらく、このテストによって測定される機能は、たとえ運動不足だとしても、都市生活を経験することなどによって、かなり発達させることができるのだと思います。
  また、片足閉眼立の成績は良くなかったのですが、日常生活を見る限り、ネパール人のバランス機能が悪いとは思えません。たとえば、シェルパやポーターたちも、片足閉眼立ではよい成績を示しません。しかし、私たちがヨロヨロしてしまうような悪路や危険な道を、約三〇キロの荷物を背負ったままで実にバランスよく歩くのです。 – 159ページ

  日本人は勤勉なのだそうです。そして、諸外国に進出した企業の多くの人たちから、現地の人たちが働かないという話を耳にします。簡単にいってしまえば日本人は優れているということになるのでしょうが、これは日本人の尺度で見ているからにすぎないと思います。
  なぜかというと、もともと人間はそんなに働くのが好きではなく、あまり働かなくとも生きてこられたはずだと思うからなのです。カラハリ砂漠に住むセントラル・ブッシュマンの労働時間は平均すると四時間三九分にしかすぎないのだそうです。そして、もう少しよい環境に住んでいるクング・ブッシュマンは、一日一、二時間しか働いていないのだそうです。
  こんな話を聞いたりしますと、毎日八時間も働き、こせこせと生きているほうがばかじゃなかろうか、という気になってきます。 – 160-161ページ

  (オーストラリア原住民(アボリジニー)の研究者としても有名な新保満氏の指摘から)「私は、オーストラリアのアボリジニーの歴史をみながら、弱い者に対する強い人間の残酷さと、自己中心的な近視眼的な利益追求が人間性をおしつぶす過程とを読みとった。そして、その同じ過程が日本でも現に進行しつつある事実に思い当って慄然としたのである」 – 162ページ

私たちが勤勉であらねばならない背景には、「弱い者に対する強い人間の残酷さと、自己中心的な近視眼的な利益追求」があり、それこそが明治維新の正体だったのではないか?

 

「「見る祭り」に欠けているもの」より

  私は、昔の祭りほど人々を熱中させる何かが、新たに登場したとは思えません。

工業化以前の暮らしを調べていて気づいたことの一つに野球やバレーボールなど、集団が激しく争う球技は、近代になって作られたという事実があります。以前の子どもたちの遊びといえば、大人の真似をすることや、相撲、かけっこなど動物たちと似た遊びでした。 人と争う球技に熱中させる代わりに確かに祭りは性質を変えてしまいました。一方で、祭りのように半狂乱になる状態というのは、チンパンジーやゴリラにもある程度みられるように思います。オスのチンパンジーやゴリラはデモンストレーション行動をよくやっていますが、その際、群れ中が大騒ぎになります。 本書ではブッシュマンが夜通し続ける歌や踊りに触れていますが、未開地域の人々は頻繁に夜更かしをしては遊んでいるようなのです。動物としての心にとって必要な、熱狂的な状態を経験するという行為が、野球などの野蛮なスポーツを観戦するという行為に変性させられてしまった状態なのではないでしょうか。

 

「日本人の大型化」より

  縄文時代以降の日本人の平均身長を比較してみますと、江戸末期から明治初期にかけての値が最も低い傾向にあるといえます。不思議に思われるかたもあると思いますが、多くの研究者が認める事実なのです。
  このことについて、私は江戸末期や明治初期の日本人の栄養状態が劣悪であったためであろうと考えています。前にも触れましたが、カラハリ砂漠のような厳しい環境に住むブッシュマンでさえ、非常に短い労働時間で必要な食物を手にいれています。
  ですから、縄文人はもっと簡単に食物を得ることができたと思うのです。シカ、イノシシや貝類などを豊富に食べることができたと考えられますので、動物性タンパク質の摂取量も、江戸時代や明治時代よりも多かったと思います。
  それが、農耕生活が定着し、権力が台頭したり都市化が進むようになって、量的にはいざ知らず、質的には栄養状態が悪化してきたと思われるのです。もちろん、仏教の影響で「殺生禁断」の勅が出されたりしたために、獣肉食の習慣が徐々に失われたことも、全く無関係ではないと思います。 – 170ページ

  脳の大きさは、からだの大きさと無関係ではありません。ですから、からだの大きさの違いを無視することはできません。そこで、脳の大きさとからだの大きさの比をとって比較してみますと、数百万年前のオーストラロピテクスの時代から、約五〇万年前のエレクトスの時代までは、この比がほぼ一定です。つまり、からだの大きさに比例して脳の容量も増大してきたわけです。そして、そのあとには、からだの大きさの変化よりも著しく大きな脳容積の増加が、ネアンデルタールやクロマニョンの時代までつづいているようです。
  しかし、現代の日本人の値は、オーストラロピテクスなどと大差のないものなのです。人類の歴史の中で、からだのわりには脳が最も小さい部類に入るのです。このような傾向は、八頭身美人の多い国ではいっそう顕著に認められることになります。 – 172-173ページ

(小学生にも見える頭の大きな少女の写真に付けられたキャプション)子守をする15歳の少女。彼女はまだ初潮を迎えていない(チミー村にて) – 172ページ

  ネパールの子どもたちは早くから一人前の人間として自覚を持ち、生物学的に一人前となる時期にはほぼ一人前の男または女として社会からも認められています。しかし、このネパールにもどうやら早熟化の傾向がぼつぼつ見られるようになってきたようです。農山村部では一五~一六歳である初潮年齢が、都市部では一三~一四歳に低下していると思われるのです。 – 174ページ

 

「質素な食事と豊かな食事の差」より

  重労働をするにしては、いかにも質素に見えるこの日の食事も、特別なものではありません。いつものことなのです。そして、チベット系の人たちに限らず多くのネパール人の食事もかなり質素なのです。肉類を口にするのは週に一、二度ですし、海に面していないためもあると思いますが、魚介類はほとんど食べられていないのです。
  栄養をつけなくては力が出ない、そんな話はネパール人には当てはまらないのです。今日の栄養学や体力学の常識で、ネパール人の栄養と体力の関係を考えることは困難です。私たちは、細かな栄養学の知識を持っています。しかし、その知識も本当に正しいのかどうか疑いたくなるのです。 – 178ページ

片足閉眼立や握力同様、測定手法や、価値観が実態とかい離しているのかもしれません。

 

「問題が多い砂糖の多量消費」より

  ネパール料理に香辛料がたくさん使われることについて、私はそこに積み重ねられた生活の知恵があると思っています。まず、香辛料には防腐剤としての役割があると思います。衛生状態のよくないネパールでは、香辛料を大量に用いることには、味をよくする以上の意味があると思うのです。
  またトウガラシなどの香辛料は、野菜が少ない冬の間の貴重なビタミン減だと思います。もし、このような香辛料を使わなければ、冬にはビタミンAやビタミンCなどが不足してしまいます。 – 183ページ

  エネルギーだけが豊富で、ビタミン類やミネラル類などのほとんど含まれていない食べ物が、日本でも急激に増加しているのです。おそらく、増加の原因は見栄え、味、そして手軽さだと思います。このような食品が有害であることは、アメリカの上院のレポートが示しています。豊かな国アメリカの国民は、よく食べているにもかかわらず栄養失調ぎみだというのです。 – 184ページ

  ネパールでは、子どもたちに「ミタイ(甘いもの)」をねだられることがしばしばあります。穀類の摂取率が高いネパール人の食事で、糖質が不足するはずはありません。チョコレートやキャンディーが珍しいことは事実ですが、そればかりではないと思います。
  そして、人間の甘さに弱い性質は、きのうきょうできたものではないという気がするのです。いわゆる原始的な生活を営む人々の多くが、甘いものを手に入れるために大変な努力をしているのです。
  たとえば、オーストラリアの原住民(アボリジニー)の調査をした社会学者の著書には、次のようなことが書かれています。砂漠地帯に住む原住民たちは、ハニー・アントというアリの一種から甘い汁を採るのだそうです。そして、このアリに刺されると大変に痛いそうですが、甘味の誘惑には勝てず、昔は見つけしだい、いきなりこのアリを口の中にほうり込んでいたそうです。
  また、アフリカに住むハヅア族の食生活を調査した栄養学者は、次のように述べています。「ハヅア族は、ハチの際限ない拷問もいとわず、わずかな量のハチミツを手にいれようとする。甘いものは、珍重される食物である」と。 – 184-185ページ

  栄養学者のクロフォードたちは、食品に対する規制は、毒のあるものだけに限られており、食べてもろくに役に立たないものがなんの規制も受けていない現状は、けっして望ましくない、としています。一理ある意見だと思います。 – 187ページ

 

「動物性食品をうまく利用しているか」より

  『食生活と文明』の著者でもあるクロフォード夫妻は、長期間にわたるアフリカでの栄養学的な比較研究の結果などをもとに、「人間が動物性の食品を必要とする理由は、タンパク質が必要なためではなく、炭素鎖の長いポリ不飽和脂肪酸が必要なためである」と首長しているのです。
  そして、脳、血液や内臓などを好んで食べれば、このポリ不飽和脂肪酸を多量に摂取できるばかりではなく、ビタミンやミネラル類も豊富に摂取することができるのです。
  タンパク質は、植物性のものも動物性のものも、からだの中ではアミノ酸に分解されてかれ吸収されます。もとが動物であろうと植物性であろうと、ある種のアミノ酸が一定量摂取できればよいのです。ですから、タンパク質が必要であるために動物性食品を食べるという説には、確かな根拠があるとはいえないのです。実際に、必要なアミノ酸のすべてを植物性食品から得ることは可能なのです。
  一方、脂質は脂肪酸とグリセリンとに分解されてから吸収されます。けっして脂肪酸を細かく分解する必要はないのです。そして、炭素鎖の長いポリ不飽和脂肪酸は、動物のからだ、とくに脳をつくる大切な材料となります。
  しかし、植物性のポリ不飽和脂肪酸には、炭素鎖の長いものはありません。そして、この植物性の脂肪酸から、脳にあるような炭素鎖の長いポリ不飽和脂肪酸をからだの中でつくることは困難だと考えてられているのです。
  また、クロフォードたちの仮説を支持する著名な人類学者のアードレイは、「人類が進化の過程で食べてきた主要な食物は、動物性のものに違いない」と述べています。それは、約五〇万年前に人類が火を用いて調理できるようになるまでは、今日ほど多くの穀類や豆類などをけして食べることができなかったはずだから、というのです。 – 189-190ページ

  母乳が優れていることは、免疫学的な面からも指摘されています。同じことは、ポリ不飽和脂肪酸からもいえるのです。牛乳のポリ不飽和脂肪酸は全体の二パーセント程度にすぎません。日本人の母乳の一〇の一程度しか含まれていないのです。からだを急激に大きくする必要はあっても、人間ほど高度な知能を必要としない子牛には、牛乳はふさわしいかもしれません。しかし、からだは牛ほど大きくする必要はないが、高度な知能を持たなければならない人間の子どもに牛乳がふさわしいはずはありません。 – 193-194ページ

 

「自給自足の村・コテンの住人」より

  コテンの人たちを見ていると、そして小川さんの話を聞いていると、ローンで家を買い、ローンに追われて働くなどという日本の生活が、なんだかばかばかしいような気になってきます。 – 202ページ

  アボリジーの研究者としても有名な新保氏は、次のように述べています。アボリジニーにとって不可解なのは、白人の行動であった。白人の本当の神はいったい何なのだろう?キリストという名の神であるはずがない。もし宣教師の説くところが真実なら彼らの祖先をあれほど残虐に射殺、毒殺することをキリストが許すはずはない。白人たちは、本当は別の「野蛮で残酷なトーテム」を信じているに違いない。アボリジニーたちは一生懸命に考え皆で話し合った。そして最近一つの解答を見つけた。「白人のトーテムは”金”である」と。 – 203ページ

  どのような社会が望ましいのかを、私は指摘することができません。しかし、日本の社会をコテンの村から眺めてみると、多くの欠点があるように思えてくるのです。
  自然との対応もその例外ではないと思います。「西欧合理主義には、もともと自然との共存という発想はなかったのでは」などという意見を、最近よく耳にするようになってきました。そして、「過去の日本人のほうが自然の法則をよく知っていたのではないか」といった主張も聞かれるようになってきました。 – 204ページ

  自然は予測がつかないもの、そういった謙虚な姿勢が江戸時代ごろまでは見られたといわれています。堤防の一部が決壊する事態があることも予測し、当時の人は次善の策を講じていたというのです。決壊した箇所を臨時の貯水池として、被害を最小限にとどめようとする工夫があったのだそうです。 – 205ページ

 

参考文献

『足の話』近藤四郎、岩波書店
『暑さ寒さと人間』三浦豊彦、中央公論社
『アラスカ・エスキモー』祖父江孝男、社会思想社
『栄養と運動と健康』今野道勝、朝倉書店
『オーストラリアの原住民』新保 満、日本放送出版協会
『家畜に何が起きているか』平沢正夫、平凡社
『狩りをするサル』R・アードレイ、河出書房新社
『環境と人類』小原秀雄、共立出版
『健康の設計』神山恵三、大月書店
『原始人』C・ハウエル、タイムライフブックス
『現代生活と体育』九州大学健康科学センター編、学術図書
『食生活と文明』M・クロフォード+S・クロフォード、佑学社
『食物と歴史』R・タナヒル、評論社
『東海道五十三次』岸井良衛、中央公論社
『都市の自然史』品田 穰、中央公論社
『日本人の食生活と栄養』渡辺 孝ほか、社会保健新報社
『日本人の体力』福田邦三編、杏林書院
『人間の栄養学・I』J・メイヤー、医歯薬出版
『人間はどこまで動物か』A・ポルトマン、岩波書店
『ネパールの生神様』那谷敏郎、平凡社
『秘境ムスタン潜入記』高橋 照、東京新聞出版局
『ヒマラヤ診療所日記』岩坪昤子、中央公論社
『ヒマラヤスルジェ館物語』平尾和雄、講談社
『ブッシュマン』田中二郎、思索社
『文化を越えて』E・T・ホール、TBSブリタニカ
『街のホモサピエンス』小原秀雄、合同出版
『マンウウォッチング』D・モリス、小学館
『森の隣人』J・グドール、平凡社
『野生と文明』新保 満、未来社