地盤沈下なんてさせられてたまるか

本日もお付き合いくださりありがとうございます。

日本に居れば当たり前でも、世界全体を見れば当たり前ではないことはたくさんあります。治安のよさだとか、電車の運行の正確さだとか。

そんな、当たり前ではないことの一つが、高等教育までを母国語で賄えるという環境です。日本語は一億人を超える話者を持つ大きな言語であり、日本語の教科書や専門書の出版を可能とする知識の集積や、他の言語からの知識の移入が行われていう恵まれた環境にあります。教科書を作ったり、専門書を翻訳して出版したりという活動ができるのは、日本語の話者が多くいて、さまざまな専門的な概念を扱うことができるだけの翻訳や造語が行われてきたからなのです。

もう一つの当たり前でないことは、古くからの本が今も多数残されているという事実です。

日本は、和紙と墨という保存性の高い材質を使い、文字の使用が盛んな文化を持ち、焚書があまり行われてこなかったという、実にすばらしい状況の中で、千年前にもさかのぼるような古文書が多数残されているという、恵まれた国になりました。

江戸時代の紛争解決方法であったり、物価であったり、書簡であったりといった資料が、さまざまな場所に眠っていて、今も見いだされ、あるいは流通に乗り、あるいは価値もわからないままに廃棄されていっています。

先日知ったのは、江戸時代に広島県で、一カ月にわたって夜ごと物の怪と戦った少年の話です(稲生物怪録)。

こうした過去の資産と触れているうちに、今語られていることと、本当にあったこととの間には、大きな違いがあったのではないかという事実が見えてきます。

たとえば、江戸時代に関所が作られた最大の理由は、入鉄砲出女に警戒することではなく、キリスト教徒の移動を防ぐためであったのではないかということや、百姓一揆の背景としては、圧政というよりも天候不順による不作というどうにもならない事情があったのではないかということです。そしてまた、日本ほど庶民の文化が発展した国もなく、しかも日本人はもともとひょうきんさを持ち合わせていたらしいということも感じられてきます。

バブル崩壊以降の日本は、世界システムの中で、それまでの先進国という扱いから、周辺的な扱いへと変えられて、日本人の経営者たちを退陣させて欧米系の経営者たちがその座を奪い、日本人には底辺に近い仕事しか与えないぞという意図のもとで、マスコミ報道が日本人の地位の低下を推し進めています。

こんな時代だからこそ、日本語と古文書という資産を見直して、私たちの地位を低下させることを意図する世界システムの運営者たちを相手に、私たちこそが、本来的な生き方を知っている存在なのだということを主張して、反撃に転じたいものです。