子供たちを学校に入れて、伝統文化を否定する教育を与えよう

これは、日本でいえば明治維新の後で行われたことです。
アフリカ最後の裸族ヒデ族でいえば、1968-69年、カメルーン政府による「はだか狩り」が進む中で行われたことです。
多くの未開地域では、宣教師が入り込んで教会をたて、学校を作って教え始めたときに行われてきたことです。
時には、先住民の子供たちを親から強制的に引き離して行われました。カナダでもオーストラリアでも、同化政策という名前で、差別や虐待よりも大きい、伝統文化の否定という教育が押し付けられ、子どもと親は価値観を断絶させられました。
 
いや。本当に伝統社会はひどかったのだから、正しいことをしたのだという人もいるかもしれません。
 
そうした人には、ぜひ、そのような教育によって壊される前の社会についてと、今の世界の本当の姿について知って欲しいと思います。たとえば、地方自治という点でいえば、かつての自治体は共同体でしたが、今の自治体は単なる行政のコマにすぎず自主性を発揮する余地はほとんどありません。たとえば、環境保護についていえば、かつての社会には、環境を保護するにはときには人命が犠牲になってもしょうがないという価値観があったと思われます。そのために厳しい掟が定められ、破った者は命を落とすようなこともしばしばあったのです。たとえば、暮らしの生物性という点でも、かつてのほうがずっと生物らしい生き方が可能でした。身近な世界に生物たちの姿が多く、人のライフサイクルも生物としての成長や成熟、衰退に会ったものでした。
 
地球上のどの地域でも同じように学校教育を強制し、伝統文化を否定する教育を与えるという政策が繰り返されるのは、一貫した目的で、同じ人々が指導しているためであると思われます。これが行われるタイミングは、日本でいえば、『世界システム論講義にあるように日本が世界システムに組み込まれることになった明治維新後でした。他の場所でも、すでに世界システムに組み込まれている国の中で、未開部族を世界システムに組み込みタイミングでこれが行われています。
 
つまるところ、世界システムにとって動きやすい中央集権国家を作ったり、この国家の強制力によって資源開発を行ったり、工業化を推進したりするには、伝統社会を否定して破壊する必要や、生産性の低い動物的な生き方ではなく生産性が高い経済的な生き方をするように価値観を組み替えさせる必要があったことから、こうした教育が実施されてきたのでしょう。
 
今も、マスコミと学校教育はこの延長線上にあって、世界システム(国際金融資本)の活動を支援するために、せっせと活動していることが、いったん、この視点を持ったなら、いやというほど見えてくるのです。