郷土文化 通巻61号 名古屋城再建特集(人柱/岩崎石/浅野幸長/徳川宗春公の墓誌銘など)
目次
随想 人柱…………………城戸 久(1)
名古屋城と岩崎石 ………….横井時綱(2)
名古屋城と浅野幸長…………森 徳一郎(7 )
金鯱再現覚書………………安藤直太朗(10)
名古屋城余聞……………………….(22)
徳川宗春公の墓誌銘…………大ロ鏘一(28)
彙報……………………..(29)
編集後記………………….(31)
昭和34年発行 30ページ
内容について
昔のお城や橋には人柱があると、よくいわれている。工事がうまくゆかない場合とか、むづかしい工事では、はじめのときから、生きながら地下に埋められてゆくというのである。封建時代とはいえ、まことに悲しい話である。だから、それにまつわるいろいろのことが、各地に伝えられている。
戦後になって、昔のお城の解体修理が、あちこちで行われた。松本・松江・姫路・彦根などである。又、新しいものも建てられた。このような場合は、新に基礎をつくるのであるから、昔の基礎を堀りとってゆく。もし、人柱があったとすれば、何かのそれらしいものが出てこなければならない筈である。ところで、今までのところ、どこからもそうしたいわくつきのものは出ていないのはどういうものであろうか。名古屋城の基礎工事は石垣の中をすっかりコンクリートでつめかえるという方法であるから、あるいはそういうものが出はしまいかと、ひそかに期待していたが、結局は何も出なかった。つまり、人柱はやはり伝説に終るので、実際はそのようなものはなかつたとするのが、 真相といえよう。
だからといつて、人柱がなかつたというのではない。むづかしい工事を完成させてゆくには、いろいろの危険がともなうものである。そうした危険をすこしでも少くしようとするには、工事をやつている人々に安心感を与えるのも1つの方策であろう。人柱があると信じさせるようなことを、工事の責任者がやらなかつたとは限らない。観念的な人柱はあってもよいのである。ましてや、実際に工事の危険のために、あるいは過労のために、多くの人々が、尊い命をうしなうということがあれば、これこそ、その工事のほんとうの人柱であるといつて、さしつかえなかろう。
再建名古屋城もめでたく完工した。この機会に慶長の昔から今にまでおよぶこの城の人柱になった人々の冥福をいのりたいものである。(筆者、名工大教授工博)
松江大橋にも人柱の言い伝えがあり、こちらは実際に碑があります。私は、名古屋城から人骨が大量に出たといううわさを聞いたのですが、どうやら正確な話ではなかったようです。
天下の名城、名古屋城天守閣が他の若干の建物と共に戦火に炎上したのは忘れもせぬ昭和ニ十年五月十四日、米機空襲の夜の一瞬の出来事であった。それから今度の再建まで足掛け十五年の歳月が流れ去っている。終戦直後は再建など夢想だもしなかった。数年を経て再建是非論も漸く活撥となり、この際住宅建設をこそ急ぐべきであるとか、又封建時代の遺物など今更再現する必要はないとかいう意見も相当強かったが、やはり名古屋市の如き産業観光都市には、是非大名古屋のシンボルとして名城の再建こそ実現さすべきだとの意見が大勢であった。或る座談会の席上で一外人は、今更天主閣など無くもがなである。城墟のさびしさこそ歴史の真の姿であり、懐古の詩情をそゝるものだと述べていたのを新聞紙上で読んで、つい私も同感したことさえあつた。しかし、終戦後十年、漸く社会情勢も落ち着き、経済も安定して来るにつれて、名城再建は県市民の世論となり、愈々具体化される至つた。
名古屋城に関する歴史的記述は、今般「名古屋城史」として出版されると聞いているし、又再建始末については、いずれ綿密な「工事報告書」も出来ることと思われるので、これに譲るとして、私はこゝに名古屋城並に第三師団関係の記事を明治初年より昭和二十年に至るまでの概要を尾藤功氏の蒐集された資料を参考して掲げ、特に名古屋城のシンボルとも謂うべき金鱸の再現始末をなるべく詳細に記述し後世への現況報告としたい。
明治元年から昭和20年5月までの名古屋城関係年表と、新しいシャチの詳細、名古屋城の鯱に関する随想が収録されています。
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