郷土文化 第12巻第3号(士分の屋敷拝領家/第二次長州征伐/挙母市西山室発見の旧石器など)

2019年6月12日

郷土文化第12巻第3号
郷土文化第12巻第3号

目次

士分の屋敷拝領家作新築移転
屋敷内不用土の譲渡の手続……………………..新見吉治(1)
名古屋藩における給知の封与と没収………………林 董一(10)
第二次長州征伐をめぐる諸情勢………………….村瀬正章(18)
芭蕉以前の尾張俳諧…………………………..加藤二一(25)
資料
挙母市西山室発見の旧石器について………………駒井鋼之助(34)
内藤喜左衛門について…………………………篠原 薫(37)
荘白川見学後書………………………………田中鏡一(41)
彙報……………………………………….(44)
編集後記

昭和32年発行 46ページ

内容の紹介

「士分の屋敷拝領家作新築移転屋敷内不用土の譲渡の手続」の冒頭部分を以下に示します。

一 はしがき
明治維新の際、農商は従来の持地持家の地主家主とし て、その所有権を認められたが、特権階級と称えられた士分以下同心に至るまでは、その家屋敷を没収され、払下げの名義で安価で再交附されて始めて所有権を認められることになつた。この事は現代若い人達の日本歴史と西洋歴史とをくらべて見る上に、特に頭に入れておかねばならぬ根本義である。畢竟大名以下同心に至るまで、その本宅は官舍であった、たとえ将軍や藩主から拝領したとはいへ、家屋敷や知行所は、使用収益を許されただけのもので、土地 でも家作でも国有であるという法律的原理が根拠となつていたからの事で、ローマ法を採用した現代法の解釈では維新の際における土地処分は了解しがたいものがある。今鈴木家文書記録(徳川林政史研究所保管)によつて、今から百五十年余前享和の頃における国家の拝領屋敷について、士分の屋敷拝領、家作新築、不用土の譲渡の手続の一班を調べて見よう

項立ては、一「はしがき「」、二「鈴木家の由緒」、三「屋敷拝領の手続」、四「家作新築と移転」、五「土壊譲与」です。

名古屋藩における給知の封与と没収」の冒頭部分を以下に示します。

一 近世大名家臣が主君より封与せられた給知を領知する権能、すなわち地頭領知権に関しては、地方史研究の勃興とともに、各藩にわたり、かなり活発に論ぜられている。
しかしながら、それ等の多くは、給知の支配形態ないし地頭領知権の内容に集中し、いかにして地頭が領知権を取得し、また喪失するか、つまり給知封与と没収の手続について、あまり触れられていない。もちろん給知支配権の問題は、近世封建制解明の一つの重要な鍵であることには間違いないが、その前提とし、て給知封与と没収の問題も、当然考察されなければならないと思う。新見吉治博士がすでに本誌所載「尾張藩士知行の研究」において、相当詳しくのベられてはいるが、わたくしはこれと重複しない限度で、名古屋藩における給知封与と没収の問題を取扱ってみたい

項番は一から五まで降られていますが見出しはありません。

第二次長州征伐をめぐる諸情勢」の冒頭部分を以下に示します。

まえがき
慶応とよばれる年は、幕末政治における決定的な年である。これまでに封建社会の内的変化と新しい国際関係に直面して、幕府は急激に崩壊に導入されたのであるが、幕府の無為を曝露し、その威信を失墜したものは、このとき行われた長州征伐であった。ここに第二次長洲征伐をめぐる 西三河の諸情勢を検討することによって、民衆のそれに対する動きを知ろうと思う。

項立ては「まえがき」、一「物価騰貴、世情不穏」、二「将軍の進発と村の負擔」、三「民衆の反幕」です。幕末に欧州勢力と結んで討幕へと動いた長州藩に、幕府や庶民がどうかき回されたのかという視点から読むと面白そうです。

芭蕉以前の尾張俳諧」の冒頭部分を以下に示します

大藩である尾張でも、寛永ニ年には農民の他国へ出る事が禁じられたし、熱田、名古屋への行商が制限されたりした。寛永十八年に大凶荒に襲われている。この後も屡々凶荒に見舞われたが、尾張の俳諧は、比較的豊かな階級の中に、支持する人達の広さの中に育って行ったのである。
元和元年、松永貞徳は四十五才で京都に於いて最初の発句を作った。慶長末年には尾陽三哲の一人、吉田友次が生まれ、寛永三年には春流が生まれたと見られている。寛永六年には貞徳門下の西武が京都で初めて俳席を設けた。寛永十年貞門最初の撰集「犬子集」が完成した。京を中心に文化の低い民衆にうけた貞門俳諧は、着実に地位を築いて行く。
寛永十三年熱田神宮に於いて法楽萬句が千秋大宮司の手で催された。近在、近国の奉納句が集められた。これらの事が橋本毎延子の如き熱田俳人を生み出す基盤となった。中世の伝統から離れない形式的な法楽萬句も、回を重ねるにつれて貞門古風を身につけて行った事と思われる。
寛永十七年には知足が鳴海で生まれた。同十九年には、近江出身の季吟が貞徳門に入った。慶安四年八月、貞徳の依頼を受けた京都の鷄冠井令徳(良徳)は、貞徳をはじめとする貞徳門の発旬集の撰をなした。貞徳はこれをもって発句の範たらしめんとした。「崑山集」と云う。尾張俳人のこれに載る者四十七人に達している。蓮也、毎延子、呑盛、正興等熱田の俳人の名も見える。又、尾州清水不存の名もある。後の春流である。当時二十六才であった。これは、身の四十四旬、友我の三十五句も含まれた。

句は多く紹介されています。

挙母市西山室発見の旧石器について」では、東京の考古学者、松平義人氏を、岡崎市西北の鴛鴨に住む郷土史家、長谷川清氏にひきあわせ、長谷川氏の収集品の中に、拳母市西山室から出土した旧石器らしきものが少数含まれていたことが記されています。西山室は十分な調査もないうちに農耕地にされてしまったと追記があります。

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