謎の探検家菅野力夫 単行本 – 2010/5/1 若林 純 (著) 青弓社

1枚の絵葉書から知ったこの探検家は、新聞社に自分を売り込み、老いも若きも引き付ける講演を重ね、絵葉書を売って探検の資金を得ることのできる人であり、戦前の日本人たちの姿を伝えてくれている貴重な人物である

チリのバルパライソ市にある、故大阪府立四条畷中学校長青木欣四郎氏の墓を訪ね、アンデス連邦とペルー国境の砂漠地帯を探検中の菅野力夫氏が写った戦前の絵葉書があります。戦前にぺルーの砂漠まで行くほどの探検家であれば、今でもある程度有名なはずだと思うのですが、私は初めて知った名前でした。そこで調べてみたところ、2010年にこの本が出版されていることを知りました。

この本は、多くの絵葉書を残しながら、詳しいことのわかっていなかった菅野に関する資料が、2007年春に菅野の遠縁にあたる家から大量に見つかったことを受けて作られています。見つかった資料を元に、8回にわたる世界旅行を中心に、菅野の生涯がわかる範囲で整理してあります。途中からは菅野自身がカメラ持参で探検旅行に出かけたため多くの写真が残されており、この本にも多数収録されていて、当時の海外、特に日本人の様子がよくわかる内容になっています。

菅野は明治20年頃に福島で生まれ、日露戦争の頃に青年時代を迎えました。人一倍熱血漢で大男でもあった菅野はロシアに対する日本政府の弱腰外交にじれったさを感じていたのでしょうか、旧制中学卒業の年、1904年に中退し、西郷隆盛亡き後の豪傑と言われていた頭山満の押しかけ書生となりました。一方で、1900年にプロテスタントの牧師である島貫兵太夫が苦学生の救済と海外移住・海外移民の推奨・斡旋を目的として日本力行会を設立していました。日本力行会では世界無銭旅行を計画しており、その第1回の記事を新聞で読んだ頭山満が菅野を力行会に入会させたと推測されています。

このような形で、アジア主義者と称される頭山満の援助と、力行会という正当な理由を得て、菅野は九州から東南アジア、インド、西アジアへと第1回の世界旅行に出かけています。いずれの場所でも、菅野自身を被写体として、現地の特色を示すコスプレや、現地の人びと、または名所を背景に写真を撮影してあります。これは、その後の講演活動や絵葉書制作を考えてのことのようです。そうした菅野の金儲けセンスのおかげもあってか、第1回世界旅行こそ無銭旅行と銘打ちながら実際には頭山満の援助がうかがわれるものの、第2回以降は、各地での珍しい体験や、状況、ビジネス面での可能性といった内容を、聴衆に合わせて変えながら巧みな話術で披露することで、旅行のための資金を稼ぐことができたようです(何しろ東京に家を建てています)。小学校で講演することや、女子師範校で講演することもありました。また、一般の講演では、熱が入り、真夜中過ぎまで続くこともありました。大変な数の講演をこなし、多くの聴衆を魅了したようです。

行先は、世界旅行といいながら、主に、当時の日本にとって政治・軍事・経済的な重要性の高い、黒竜江周辺やハワイ、南米、フィリピンなどが中心で、第2回以降では、そうした旅行先でも講演を重ねています。都市の規模や在住日本人の数などのデータが収録されていることもあり、日本人が次々と海外へ移住していっていた様子がわかります。日本人が17世帯しか住んでいない町で商店を始める人や、広大な土地を所有している人、警察に捕まった菅野を保釈させることができる人などもいて、当時の日本人が個人の力で世界へと活動の場を広めていったバイタリティの強さを知ることになります。

菅野は昭和18年に東京から郡山に転居し、昭和38年に亡くなりましたが、その1年前まで講演活動を続けていました。本書では、菅野こそほかに職業を持たない「プロ探検家」として白瀬矗とともにただ2人の存在であるとしています。このような貴重で、マスコミ受けしそうな菅野が消えていった理由はどこにあるのでしょうか。

私はこの本を読んで、戦前の日本人が、白人たちと同様に、「私たちは世界各地に進出して、社会の中心となるべき存在である」という意識を持っていたように感じました。台湾や朝鮮、満州だけでなく、インドやハワイ、南米各地もまた、新しい時代の日本人が経済活動を通じて社会の中心となっていくことのできる場所であると考えていたように感じられるのです。しかし、残念ながら、『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』でしばやんさんも指摘されているように、江戸幕府を一方的に悪者にしてきた我が国の学界やマスコミや教育界は、敗戦と同時に、戦前の日本人が白人を手本に世界に羽ばたいていたことを隠したくてしょうがない存在にもなり、だから菅野を忘れていったのではないでしょうか。


こうした世界を伝えてくれる本書には、多くの貴重な写真も掲載されています。一読をお勧めします。

内容の紹介

13第七回世界探検旅行
フイリピンへ
一九三七年(昭和十二年)八月三十日、東京駅を出発して、三十一日、神戸から台湾を経由して九月九日にマニラへ。そして十五日ミンダナオ島ダバオに上陸した。数日、在留の日本人の組織、会社などを挨拶に回った。二十日に三井物産経営森林伐採製材輸出業タゴン商事会社を訪ね、聴衆五十人を前に講演をする。翌日タゴン商事会社直轄権利保有林八万六千町歩(約八万五千二百九十へクタール)の原始林地帯を跋渉し、森林伐採の実状を視察する。明治末からダバオへ日本人が移民し、ダバオの北西約四十キロにあるカリナンの町にも日本人の移民は多かった。三七年(昭和十二年)にダバオ州の在留日本人は約一万六千人、カリナンには約四千人の日本人がいて、日本と同じ町並みが広がっていた。菅野は力リナンで二回、講演をおこなっている。
ダバオ在住の日本人七人と菅野は、車二台で北郡ミンダナオへ富源視察旅行に出かけた。コタパト州、ラナオ州、東ミサミス州、ブキドノン州を七日間で千三百キロの行程だった。コタバト州コタパトには日本人五十五人在留、ラナオ州ダンサランには唯一の日本人である松井愛助夫妻が三十年間生活していた。ブキドノン州マライパライには在留日本人は雑貨商一軒だけ。群猿飛ぶ森林地帯を通り、モロ族の酋長を訪ね、豪雨の悪路を水牛に索すなど徹夜泥雨と闘う難行苦行の旅だったようだ。当時、ダバオに日本人が移住して三十数年がたち、ダバオ州在留日本人は一万六千人いて、麻の栽培と林業を主な仕事にしていた。領事館があり、日本人小学校が十三校、 日本新聞社が四社、日本病院がニ力所あった。菅野はダバオの印象を、「麻の産地ダバオの開発の恩人たる大和民族が日本政府からの一切の援助もなく、全く裸一貫より築き上げた三十余年間に亘る血の歴史により開拓されたる偉大な我同胞の独立奮闘せる勇姿を視て讃嘆す」と記している。
十月三十日、セブに上陸した。当時セブにも日本人街があり、セブ日本人小学校は職員四人、児童三十一人。菅野は日本人会主催の講演会をおこなっている。セブには三日間滞在しただけでマニラに向かう。十一月三日、マニラに着いて講演をしながら十日ほど滞在してからパギオに向かう。パギオでは、日本人七百人が犠牲となったといわれている一九〇三年(明治三十六年)に開削されたベンゲット道路と金山を視察した。ベンゲット道路の 開通によって、その開削工事に従事した日本人はニ千数百人。工事後多くの日本人がミンダナオ島ダバオに移住した。パギオ在留日本人は八百二十五人、日本人小学校は校長村井熊雄氏と職員七人、児童百四十二人との記録がある。またパギオには福島県人会があり、会長は須田紀一氏で、須田氏は自家用車ニ台、トラック五十八台を有して木材運搬業を営む自力奮闘の成功者だった。
二十二日、須田氏の車でパギオから百五十キロ離れたポントックへ向かった。ここの住人はイゴロット族で、当時裸体生活をしていた。この地方には世界七不思議の一つ、階段式水田があり、数千尺の大渓谷の斜面に石垣を築き稲田を作る。その規模は大きく、山水の美は天下の奇観だった。ボントックには在留邦人十七人で、唯一の日本商店として足立商店があった。
二十六日にマニラに戻って一力月近く滞在している。二十八日にはマニラ日本人小学校創立二十周年祝賀記念大運動会がおこなわれた。マニラ日本人小学校は、職員十六人、児童五百七十一人と大規模だった。十二月七日 にはマニラ郊外のロスパニオス温泉に行き、ホテル日本館南海温泉に宿泊。十九日にはマニラ日本人小学校卒業 証書授与式にも参列して、その夜河野辰ニ校長に招待されスペイン料理でもてなされた。一九三七年(昭和十二 年)十二月、フィリピン群島の在留日本人は約ニ万三千人いたようだ。東京には年末の三十日に戻った。(237-238、太字引用者)

この部分だけでも、戦前の麻栽培の盛んさ、世界遺産イフガオの水田、地域親睦の定番であった運動会などを見てとることができます。