「ボクの学校は山と川」矢口 高雄(著)(白水社 1987年9月)

昭和14年に秋田の山村で生まれた著者は、どのような少年時代を過ごしたのだろうか

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『釣りキチ三平』でおなじみの矢口高雄さんの著書です。

1987年の発行。子どもたちを取りまく環境の変化を受け、自分の子ども時代を記すことで、何か伝えたいと考えていた矢口さんに、「少年時代の山や川で遊んだ思い出を、文章で綴ってほしい」という依頼が舞い込んでこの本が生まれました。本業のマンガではないだけに少し読みにくい部分もあるので矢口さんのマンガの面白さを期待したらがっかりするかもしれません。挿絵はもちろん本人によって描かれています。

内容は山と川からの学びに限らず、当時の子どもの暮らしや生活全般の記述になっています。この本の発行時点で矢口さんはまだ30代ですから、時期は早すぎますが、自叙伝のような内容です。

まだテレビもなく、自動車も少ない中で、一方には古くから伝わってきた田舎の伝統的な暮らしが濃く残っており、他方では戦後の新しい教育を受ける世代として、また経済環境が変わって出稼ぎが始まる様子や、学校時代には出来の悪かった同級生たちが経済成長の担い手になっていった様子も描かれています。

私も矢口さんと同じような山村の出身ですが、雪国ではなく、また30年近く後輩でもあるため、随分様相が違います。矢口さんのように、山の栗の木たちがどの順に熟していくのかを知っていたり、野生のあけびを大量に採ってきて、まだ若いあけびは熟成させて食べていたりといった、山や川と深くかかわる生活を私は送っていません。あけびを取ることや、ヤマイモを掘ることなどせいぜい1、2回経験しただけです。この違いの背景には、テレビという娯楽ができたことや、バイクや自動車を使って気軽に買い物に行くようになったことなどが影響しているのでしょう。

雪に閉ざされた冬に青年たちがワラ細工用に小屋を共同で作って集まり、子どもたちも小屋づくりを手伝って甘い甘い小豆汁をごちそうになっていたそうです。こうした青年期の過ごし方もすっかりなくなってしまいました。

最も印象的だったのは弟の死でした。20キロも歩かなければ医者のいる町まで行けない状況を受け入れるとき人が死とどう向き合っていたでしょうか。

農家の暮らしの様子も知ることができます。農業だけでは食べていけない中で大工仕事などを兼ねながら暮らすことが当たり前でした。農家には池があり、野菜やクワを洗い使います。苗代にはコイの稚魚を入れて育てます。

呪文を唱えればハチに刺されないと信じてみたり、心臓の妙薬としてサンショウウオを丸のみにしたりといった行動も、そうやって生きてきたのだということを思い出させてくれます。私も泳げるようになるようにと、ハヤの子を丸のみしたものです。

学校の先生たちの様子も描かれています。今と比べてどうでしょうか。昔のほうが自主性が尊重されていたのではないでしょうか。

こうした自叙伝のような内容から実際の暮らしの様子を知ることは、学術的な研究とは違ってイメージがわき、現実のこととして感じることができる利点があると思います。同名の文庫本もあり、文庫本には弟の死を描いた「百日咳」も収録されているとのことです。

内容の紹介

「あの雪の夜」より
母は夏の炎天下、野良のら仕事の合間を見ては山に行き、せっせとくずの葉をつんだ。つんだ葛の葉は縄で編んで軒下につるされ、乾燥される。そして秋、その葛の葉を小山のようにリヤカーに積んで、町の大きな農家に売りにいくのである。当時の農家は、今日のように耕運機こううんきやトラクターの時代ではなく、農耕はもっぱら牛馬にたよっていた。葛の葉は、その農耕用牛馬の冬の間の食糧として珍重されていたのである。この葛の葉がボクの冬期の下宿代であった。 – 70-72ページ

兎を飼って肉にしたり、ヤギの乳を売ったりといろいろな方法で現金を得ていたものです。

「にくい青虫」より
ブナ林は雨や風の日の蝶の待避所であり、おそらく夜の休息所でもあった。つまり、蝶のいる条件として花畑の近くに高い木立があること――これがたいへん重要な条件であることを知った。 – 121ページ

自分自身の体験から自分なりの発見をすることの大切さを私は感じます。

「夜来の風」より
向かい山にも裏山にも栗の木がたくさんあった。それらの木々は当然持ち主がいたわけだが、落ちた栗の実は誰がひろってもよかった。だから栗のイガがあかるむと、朝飯前のひととき先を競って栗ひろいに熱中した。特に夜半に風の強かった翌朝の栗林には大人も子どもも大勢出て、こっとの遅れが成果にひびくのであった。 – 154ページ

平等と不平等をめぐる人類学的研究』の総有の概念が示すように、かつての日本には、私物であるからといって独占できるわけではないという概念がありました。これを否定した制度を作りあげることは、自然な成り行きではなく、意図を持った行為であるとみなければならあいでしょう。