「ニューギニア高地人」 本田勝一(すずさわ書店 1973年3月)
■農耕の影響■
1964年1月13日から2月16日までの34日間、ニューギニア高地のウギンバ集落(村)に滞在し、石器の残るモニ族とダニ族の生活を理解しようとした記録です。
同行者であり、研究者である、石毛直道氏による解説が収録されています。
改めて読み直してみると、ウギンバにモニ族が住み着いたのが100年ほど前、ここにダニ族が移住してきて間もなく、また、ダニ族の移住時には先住のモニ族が追い払おうとしたと記されており、平和に共存しているというよりは、仕方なく共存しているだけのようです。
また、随所に農耕の影響と思われる実態が記されています。
内容の紹介
■意外なジャングル■
(概要)
・かれらは凶暴なヒト食い人種だと思われているが、私たちが人間であるのと同じ程度に、かれらも人間だった。(5ページ)
・約80年前にフランスなどから1000人余りの植民者がニューギニアに渡ったが、最悪の土地を与えられ無事逃げ帰った者は70人たらずだった。(6ページ)
・原住民が通る山脈横断の山道は、日本の場合のようなジグザグ・コースをとらず、どんな急坂でもまっすぐに上りまっすぐに下る。(7ページ)
・山岳地帯には、猛獣が一切おらず、毒蛇もみかけない。ハエがおらず、蚊も少ない。最高気温は30度を超えることが少なく、夜は12、3度に下がる。地獄のように不潔なジャングルと、高地の清潔なジャングルがニューギニアにはある。(8ページ)
・ヒマラヤやカラコルムと違い、ここの原住民は荷物をかついで他人のために汗を流すなんて馬鹿らしく、さっさと逃げ出してしまう。部落ごとに人集めをするハメになった。(11ページ)
・モニ語の「ソノウイ」は部落の中である程度の富と地位ができた者をさし、とくにはっきりした身分的階層を示すものではなく、酋長のような強い力もない。(14ページ)
・ウギンバ到着当日にモニ族のヤゲンブラが声をひそめていった言葉「ダニ・メネ・タワ」(ダニ族の連中は悪いぞ)(15ページ)
・高地パプアは、モニ、ダニの他、カポーク族、アヤニ族の4種族であるが、4つの言語の差は英語とドイツ語よりも大きいだろうと思われる。(19ページ)
・20歳のドイツ人と24歳のオースリア人が西イリアン中央高地のダニ族の部落に一週間住み込み、現地人同様ハダカで生活しようと全裸になってうろついた。ダニ族の付けるペニスケースを付けない二人は強制送還された。(20ページ)
・ウギンバ部落はケガ人だらけで、100%化膿している。(22ページ)
・モニ族は家族構成でも名前でも質問すれば答えてくれるがダニ族は名前を聞いても答えない。(24ページ)
・ダニ族のデカーメ君(18歳くらい)は70キロほど東のイラガ部落に属しており、ウギンバでブラブラと過ごしおり、筆者らのボーイのような存在になった。(24ページ)
・ダニ族のナゴヌ君(8歳くらい)はデカーメ君の助手のようになって仕事を手伝って残飯にありつこうとする。乞食根性は彼らにはない。(25ページ)
(コメント)
・高地パプアの4種族は入り混じって生活しているのではなく、それぞれが一定の地域にまとまって住んでおり、周縁部で他の種族と混住する状況のようです。
・性器も隠さない人々とは異なり、ニューギニア高地では、ペニスケースまたは腰蓑で性器を隠しており、その意味では江戸時代の日本人よりもむしろ羞恥心に目覚めてしまった人たちなのかもしれません。
■モニ族の簡素で家庭的な生活■
(概要)
・モニ族は表情が豊かで、全身で笑って、全身で悲しみ、日本人よりもむしろ豊かである。(26ページ)
・モニ族は客人にヤキイモを出すことが日本でお茶以上に普通の礼儀になっている。(28ページ)
・家の中で火をたくので、戸外が14度のとき室内は28度にもなる。(29ページ)
・夜具はなく、ハダカのまま横になって寝る。(29ページ)
・衣服がないためシラミはいないが毛じらみはおり、二人で毛じらみをとりあう。取ったシラミはそのまま食べてしまう。(30ページ)
・イロリの火が消えかけると起きて火をつくろうが、室内は外気と同じ温度に冷えている。(30ページ)
・晴耕雨読よりももっと自由な生活を送っている。(32ページ)
・ウギンバには土器もない。(36ページ)
・一家そろうような食事はたいてい一日一回。あとはイモのベントウを持ち歩いていて腹が減ったら勝手に食べる。(36ページ)
・容器のない生活では、地面に掘った穴に焼け石を入れて野菜を蒸し煮にする「石むし料理」を行う。(37ページ)
・石むし料理で煮た芋や野菜は鍋の場合もより、よく煮えており、べとべとになる。味付けはない。(38ページ)
・ウギンバ村の食料事情はよく、筆者ら三人の居候が増えたくらいではびくともしない。(38ページ)
・バナナは長さ数センチで緑色のものを煮てたべるが、かたくボール紙を煮て食っているような味。「うまい」と思って食べているとすれば、人間の味覚はなんともいいかげんである。(39ページ)
・植物食の人類には塩が必要であり、高地パプアの塩の存在に関心があったが、塩分を含む水の出る場所があった。(41ページ)
・ウギンバ村の食生活はイモが圧倒的主食で、カエルや昆虫も食べるが割合は低く、野菜にあたるものもサツマイモの葉と「ブナ」意外は量的に知れている。ブタも年に数回しか食べない。この100%現地食の生活はしかし体の変調によって5日で挫折することになった。(43ページ)
・環境順応がないとほぼイモだけの生活には耐えられないようである。エスキモーのときの生肉生活には耐えることができた。(44ページ)
・中央高地一帯の川には魚が全くいない。(45ページ)
・純粋な砂糖も塩もウギンバでは歓迎されなかった。(49ページ)
・持ち込んだ食べ物ではチョコレートは好まれず、ジュース類はやや好まれる。チーズやバターは全くダメ。米のメシとコンビーフは熱狂的に喜ばれた。(49ページ)
・ニューギニア高地では、親や子どもなどの親族が死ぬと、女は指を切って使者に哀悼の意を表する習慣があり、イヤでも何でも切ることになっている。ある女性は8本の指を失っていた。(51ページ)
・高地パプアは一夫多妻制であり、部落戦争などによる男の減少と、妻を富と考える習慣などが背景となっているようである。(63ページ)
(コメント)
・『逝きし世の面影』の挿絵を見て、冬でも上着だけ冬用にしてふんどし一丁のような様子が描かれていることから、人間はもともとかなり寒さに強くなれるのではないかと考えるようになったのですが、この本でも、何度か、かなり寒い中でも裸で眠る様子が描かれていました。
・特にモニ族はあまり熱心に畑の雑草をとったり、畝を作ったりしないこともあり、かなり気ままな暮らしであるようです。
・その一方で、争いによって命を落とす機会も多そうです。
■石器時代も案外不便なものではない■
(概要)
・ドレクワの家の庭で、焚き火をして談笑するモニ族、ダニ族、アヤニ族たちの写真。見た目では区別できない。(72ページ)
・原住民の交易の旅は想像以上の長距離に達し、未探検の空白地帯でも鉄オノが原住民同士の交易によってどんどん入っていく。(75ページ)
・森にはいって最低生活の実験を試みたソローの意見は、ニューギニア高地ですべて実践されている。(79ページ)
・ニューギニア高地人は文明国の貧乏人よりもはるかに簡素だが絶対にミジメではなく、生活上二十以上の数は必要ない。(80ページ)
■アヤニ族とナッソウ山脈横断の旅へ■
(概要)
・西イリアン探検中に死んだロックフェラーの息子は、高地人らに金の延べ棒を与えては戦争をけしかけたので恨みをかって殺されたという説がある。(84ページ)
・ウギンバの南に住むアヤニ族は塩やブタを手に入れるために、弓や宝貝を用意して交易に来る。ウギンバに10日間滞在したが宿泊費はタダである。交易はモニ族も行う。(86-87ページ)
・アヤニ族にとってモニ語は外国語のようなものだが、手まね身振りも加えて相手にわからせようとする態度は日本人よりも異民族との接し方になれている。(88ページ)
・標高四千数百メートルのナッソウ山脈横断は夜などかなり寒いことが予想されるが、アヤニ族はそのための用意などなくハダカで旅をする。(89ページ)
・アヤニ族は人力車の車夫くらいの早さでジャングルの登り坂を駆け上る。(90ページ)
・アヤニ族の荷物は平均30キロ近い。(91ページ)
・ヒマラヤでも、こんなペースの登山はない。(91ページ)
・野営地で過ごした明け方、気温6.0℃の中でアヤニたち(30歳前後から40歳代までと思われる5人)は明らかに寒いようだが起きることもなく眠っていた。(94ページ) ・高地人たちが動物タンパクをとる機会は実に少ない。(97ページ)
・ニューギニア高地の草は部落付近の二次林を除き、巨大な草ばかりであり、簡単に引き抜いてでんぷんをとることなどできない。(106ページ)
・彼らの夫婦生活は昼間のジャングルか畑付近ということになっており、男の部屋で成年男女が寝ることは考えられない。(109ページ)
・アヤニ族との山脈横断が処女横断でないと知り途中で引き上げ、帰還した著者らをウギンバの人々(モニ族ヤゲンブラもダニ族デカーメ)も一緒になって安心し、喜んでくれた。(110)
(コメント)
・この体力と耐寒性は、どのようにして得られるものなのでしょう。人間は、食事と運動によって、かなりのたくましさを得られるのではないでしょうか。
■ニューギニア高地人に襲われた日本軍■
(概要)
・シュヴァイツァーはアフリカ人を知能の低い人々であるとみなしており、治療をするというよりは商売人として知られていた。(113-115ページ)
・鉄砲を持ち込んでも発砲することなく立派な態度で高地人と接した探険家たちは、高地人に心から歓待され、別れを惜しまれた。(116-117ページ)
・「首狩り」は人肉を得るためではなく、何らかの意味での宗教的行事だった。(121ページ)
・日本軍はカポーク族に襲われたが、その背景にはブタを奪ったことと、カポーク婦人の腰ミノを上げてみたことがあったと推測される。これは現地で戦争が起きる二つの原因である。(127ページ)
・日本軍が襲撃された事件も、日本軍がカポーク族の一人と遭遇して驚き発砲して殺したこと、塩を強引に奪ったこと、めん羊を勝手に殺して食ったことなどが背景となっていた。(128ページ)
(コメント)
・同じ人間であるという知識ではなく、劣った人間であるという前提で行動したことが不幸を招いたように思えます。
・一方、外部の人間であっても同じ人間として受け入れる気安さに付けこまれて、道路や飛行場を整備し、教会を建設して、みじめな暮らしや大殺戮につながることにも注目する必要があるかと思われます。
■ダニ族の団体生活と奇妙な男たち■
・ダニ族もモニ族も一夫多妻であるが、モニは一戸の家が独立して家庭中心なのに対し、ダニは部落ごとに集団生活をする。(131ページ)
・ウギンバ村の場合、中心に一軒の「男の家」があり男たちは主としてここで寝泊りする。女はそれぞれの家を持つが同じ男の夫人は同じ家に同居する。(131ページ)
・ダニ族の名前は、私たちのアダ名に相当するもので、他人から付けられる。ダニ族は他部族の者に名前を教えることをタブーとしている。(132ページ)
・名前を教えない、ウギンバ村のダニ族の男に著者たちが付けたアダ名は「悪役」、「憂鬱症」、「イヤな奴」、「オバケ」、「皮膚病」、「寄生虫」とろくでもなアダ名ばかりだったが、事実、変な男ばかりである。(133-134ページ)
・これに対し、主婦たちはまともで、性格も明るい。一夫多妻で、宝貝で妻を買い、近親が死ぬと指を切るなど悲惨な待遇のように思えるが、それほどの不幸感を持っておらず発言権も案外強い。男を大声で叱りつけたりする。(134ページ)
・ダニ族は八時過ぎに畑仕事に向かい午後一時か二時頃には共同炊事場に集まって石むし料理をはじめる。アクセク働かなくともイモは一年中育つ。(136ページ)
・ダニ族の男の風変わりな性格は、三歳程度で女の家から男の家に放りこまれて母が多数の女の中のひとりのような位置づけにされ、父ともほとんど親子らしい交流のない、親子関係の薄さが影響しているように思われる。(139ページ)
・東部ニューギニアについてミードが報告したところによると、アラベシ族は幼児を徹底的に可愛がり長期間保護しており、協調性と思いやりに富み、支配欲が少なく戦争を嫌う。イアトムル族は乳児が激しくないてからでないと授乳せず、歯がはえるころになると固い鳥の骨を与えて欲求をあおっており、自己主張が強く好戦的である。ムンドゥグモ族は育児を嫌い、赤ん坊を抱くことも少なく、満足いくまで母乳を飲まないうちに乳首を引き抜いてしまうような子育てで、強烈な欲望の権化となり、怒り狂う人間となる。(141-142ページ)
・ダニ族はみごとなコーラスを歌いながら作業を行う。モニ族は歌に関しては貧弱である。(145ページ)
・ダニ族だけでなく、アヤニ族もカポーク族もすばらしいハーモニーを歌い、高地ニューギニアの伝統文化になっている。ウギンバはダニ族の歌で歌声喫茶の中のようである。(146ページ)
・歌詞は乏しく、ハーモニーそのものを楽しんでいる。相手の声をききながら歌う習慣が身についている。(148ページ)
・ニューギニアには、高地低地を問わず酒というものが一切ない。(150ページ)
・顔に限らず、どこかを象徴的に美の基準とし、それを異常に発達させるということは、あまりに単純未発達の文化では起こりにくいと思われる。(158ページ)
午前中の強くない陽ざしの中で、網袋(頭にかけて背負う)に赤ん坊を入れたダニ族の奥さんが、イモ畑で歌っている子守歌は、石器時代の平和の象徴である。愛らしく、情緒にあふれるその旋律には、日本の子守歌のような悲しみと暗さがない。日本の子守歌は、赤ん坊のためというよりも、母親の悲しみの吐露だったのではないか。 – 161ページ
(コメント)
・愛想のよいモニ族よりも、奇妙なダニ族のほうが日本人の伝統的な生活・性格に近い感じがします。
・人間は独自の考えに基づいて子育てに関する規範や習慣を作り上げ、その結果が成人してからの性格に影響しているのではないかという点は、重要であるように思えます。
■ホモ・ルーデンス■
(概要)
・モニ族のハーモニーにはに、ダニ族のように「耕作の歌」がレパートリーにない点についてモニ族に尋ねると「ダニの連中は大勢で耕作するからさ。おれたちは一人で耕すから、歌なんぞないんだ」(162ページ)
自分たちの部落、自分たちの種族に対するかれらの誇りは、きわめて高い。高地パプアは、誇り高き民族である。その誇り高い連中が、けわしい山谷をへだてて群雄割拠しているから、ニューギニア高地は戦国時代のように、いつもどこかで戦争をやっている。 – 164ページ
・ウギンバ村の場所にはおそらく100年近く前にモニ族が先住者となった。ずっと最近(古くとも40年は超えない)になってダニがやってきたが、一部はモニ族に追い返されながら大多数は住み着いた。1954年、ウギンバのダニ族と同氏族の別の部落でダニ族同士の戦争が起き、100人以上が死んだ。報復を恐れたウギンバのダニ族は一時避難していたがニ、三年ほど前にウギンバに引き返した。事情は、ダニ族の実力者の弟二人が旅先で人を殺し報復を恐れたためと、塩の交易でウギンバが適していることが理由のようである。(165-166ページ)
・ダニ族のほうが生活力が旺盛で、キリスト教の洗礼を受けた現地人の「説教者」の唱える福音を抵抗もなく受け入れる一方、モニ族は冷笑してみている。(167ページ)
・モニ族は礼儀正しく、社交性があり、家庭的温かさもあるが、バイタリティーに富み、底力があるのはダニ族のほうであると感じられる。(167ページ)
・ニューギニア高地では、いつもどこかで戦争状態のところがあり、取材中も2箇所、いずれも宣教師のいるところで戦争があった。(168ページ)
・戦争の原因は、主に女と豚のであり、小さいいがみあいが双方10人を超える死者を出す戦争に発展することがある。互いに死者数が同数になるまで停戦しないでがんばる。(168ページ)
・戦争は戦場となる草原に両軍が横に列となってにらみあい、アシの矢がどんどん命中するほどは近くに寄らない。ひとりの男が進み出て敵の悪口をどなり、他の男たちが喚声を上げる。悪口合戦の後、矢の実戦に移るがバッタバッタと倒れるほどは命中しない。第三者がとおりかかると一時休戦する。(169ページ)
・戦争の原因の多くは女かブタだが、何でもなくて人が死ぬと、日ごろ仲の良くない部落のだれかが魔術で殺したに違いないと考えて戦争になることもある。(170ページ)
かれらの戦争には、政治的にしろ経済的にしろ、支配権をかけた侵略・対決の要素が少ない。日本の戦国時代はもちろん、トロヤ戦役など、私たちが歴史として知っているどんな古い戦争ともこの点が違う。これは歴史のない国の戦争である。逆に言えば、支配権をかけた戦争が始まるときに、歴史も始まるのではないか。高地パプアは、やはりまだ「有史以前」の社会だと思う。 – 170ページ
・筆者とは別部隊の瀬戸口烈司隊員が見たホメヨ部落のモニ族の子どもの葬式では、10日余りの間遺体を安置し、バナナの葉で包んで庭の片隅にあるナンヨウスギに運び上げ、地上10メートルあたりの二股にひかけてしばりつけた。多数のブタを殺して食べる。(171-172ページ)
・ダニ族の風葬の墓は地上二メートルほどの高みに、立木を利用して板をはりめぐらせた1メートル四方に満たない箱であった。皮膚は腐敗せず、ツメもついたままで完全なミイラとなっていた。(174ページ)
・モニ族の風葬の墓も同様であった。ダニ族の青年に案内を頼んだことがモニ族におそらくバレたが、何とかごまかし、引き上げまでに報復はなかった。(174-175ページ)
・ニューギニア高地の戦争は、人間のすべての行動は政治も芸術も戦争も科学もジャーナリズムでもすべて「遊び」を根源とする文化現象だとし「人間を「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」と規定するヨハン・ホイジンガの言葉を支持する資料の一つになるだろう。(176ページ)
・ニューギニア高地は歌が豊富である一方で、絵や彫刻に類するものは貧弱であり、ほぼゼロといってよい。奇妙な面や彫像が発達する低地とは対照的である。(178ページ)
・子どもの遊びはほとんどない。遊びができるくらいに成長すれば、生活のための仕事を分担するようになることが「遊び」としての独立した行動の少なさの理由だろう。(178ページ)
・スウェーデンでは、自家用車二台を持ちイタリア旅行をしていても一家揃って貧乏づらをしていたりする。ニューギニア高地人は貧乏づらをしていない。(181ページ)
・ニューギニア高地でもカナダ・エスキモーでも、文明と接触した人々は貧相になり、従来の生活を続けている人々は堂々たる態度をしている。(182ページ)
・ウギンバは幸福でも不幸でもないゼロの状態であり、不幸でないからといって、私たちの社会を幸福にするためにウギンバを参考にするのは、昆虫の世界でメスがオスより強大だから人間も女性の方が本来強大だと主張するようなものである。(183ページ)
(コメント)
・ウギンバ村で二つの部族は共存共栄の状態であるわけではなく、先住のモニ族が仕方なくダニ族と共存しているだけのようです。
・戦争は部族間におけるわけではなく、同じ部族の別の部落同士や別の氏族同士による戦争も頻繁なようです。
・人間にとって戦争とは何であり、戦争による死と人々はどう向き合っているのでしょう。
・著者は、ウギンバを参考にすることはできないと言っていますが、私にとっては、むしろ、文明と接触する前のほうが堂々としているという点だけでも参考になると思えます。
■あとがき■
ニューギニアへは第二次大戦中に日本軍が進駐したため、わが国にとっては浅からぬ縁のある島だが、一般の認識は案外浅く、浅いだけならまだしも、原住民に対する変な偏見が支配的だったようだ。滞在期間が短くて、かれらの生活と考え方を思うように深くさぐりきれなかったが、この変な偏見を破ることさえできれば、私たちのルポの目的は大半が達せられたといえよう。狩猟民族のエスキモーと違って、サツマイモを主とする農耕民族の日常生活は、決して活劇やスリルに富んだものではないが、正真正銘の原始生活をしているかれらと接して、教えられるところはエスキモー以上に多かったと私は思っている。 – 188-189ページ
■解説(石毛直道)■
(概要)
・ニューギニアは山間部近くに樹高30メートルを越す熱帯降雨林が発達し、山地への接近を妨げており、この樹林の向こうに海岸とほとんど交渉を持たない巨大な人口の高地人たちがいるとは考えられていなかった。(198ページ)
・ニューギニア高地で最大の人口を持ち、宣教師との接触も早かったカポーク族は服をきはじめてから、肺炎が増えた疑いがある。一日一度の雨にぬれてそのまま着ていることと不衛生になることが原因として考えられる。(200-201ページ)
わたしは宣教師たちを責めているのではない。普遍的な性質をもつ「文明」というものが、きわめて個性的な性質を持つ「文化」と遭遇するとき、相手の文化を無視して一方的侵略をする場合がほとんどである。 – 202ページ
・狩猟採集民としてネグリート人と呼ばれるグループがある。アンダマン島、マレー半島のセマン族、フィリピンのアエタ族などが含まれる。(206ページ)
・カポーク族、モニ族、西部ダニ族、ウフンドゥニ族などは、文化的、社会的にかなり共通した要素を持っており、基本的な生活の原理は共通しているが、要素の組み立てかたに違いがある。(215ページ)
これらの同質な文化を持つ集団は、だいたいにおいて一定範囲の土地と結びついている。あるモニ族の部落は他のモニ族の部落との延長上につくられ、全体として、モニ族の領域と一定の分布圏をもつ。すなわち地縁集団として存在する。 – 216ページ
・高地人はほとんど孤立した世界に生きていたのであり、したがってタカラガイが通貨としての意味を持ちえた。(219ページ)
・ソノウイ(実力者)と呼ばれるようになるには、多くのタカラガイを貯め、人々にブタを振舞ったり、石斧をやるなどによって社会的実力を評価される必要がある。(220ページ)
・タカラガイの価値は高地人の間で部族が違ってもほぼ等しい。(220ページ)
・交易の旅に出るのは男の仕事で、普通は数人のグループを作りる。交易の旅は三カ月くらいかかることがある。西部ダニ族の場合は男の家、モニ族の場合はソノウイの上に泊められ、食料もただで供されておおいに歓迎される。(221ページ)
・炊事が石むし料理で水をほとんど必要とせず、洗面や身体を洗う習慣もないため、飲料水用にヒョウタン1本ほどの水をくんでおいたら一日すごせる。そこで、水面から50メートル以上登った場所でも住むことができる。(226ページ)
・ウギンバにはケマブー川を渡る橋が二つあり、それぞれモニ族とダニ族が作ったもので、他部族のつくった橋を渡りたがらない。(226ページ)
・ニューギニア高地では1日中雨降りはあまりないが晴れた日でも午後5時くらいから夜半にかけて冷たい雨が降る。高地人たちは衣類がないのでびしょびしょにぬれても平気である。(227ページ)
・多雨の地帯なので、耕地に灌漑の設備はまったくいらないが、排水溝を作って水はけをよくしないとすぐに耕土が流出してしまう。(220ページ)
・耕地を準備し、排水溝、柵の修理など、耕地を維持するのは男性の仕事である。しかし、植付け、除草、収穫の作物に関する仕事は女の仕事である。この性的分業の原則は、西イリアン中央高地にすむ諸部族すべてにあてはまる。(230-231ページ)
季節的変化がないために、山焼きの時期、作物の植付け、収穫期にきまったときはない。また高地人には作物を一度に収穫して貯蔵する習慣はない。毎日、家族を一日養うに足りる分量の作物を収穫し、そのあとに植付けをしておく。 – 231ページ
・平均寿命は短く、三世代が一緒に住むことはまれで、孫が物心づくころには祖父は死亡している。(232ページ)
・宣教師の基地のあるピタリバはモニ族の分布の東端、西部ダニ族の分布の西端、ウフンドゥニ族の分布の北端にあたる。(233ページ)
・高地人のあいだで人殺しにたいする報復はしばしば部落間の戦争にまで発展する。(235ページ)
・未開拓の原始林はだれでもが耕地や住居にする権利をもっている。(241ページ)
・モニ族が家族単位で男女の隔離をおこなうのにたいして西部ダニ族では、サブ・クランによって構成された集落単位に男女隔離をおこなっている。(241ページ)
一日の生活 モニ族(243ページ)
・起床は朝六時頃。
・朝、ヤキイモを食べるが、その場では食べないものもいる。待ちきれない幼児にはカエルの干物をあぶって与える。
・定期的な食事の時間はモニ族も西部ダニ族も午後一度あるだけである。
・八時頃、一家揃って畑にでかける。
・二時か三時頃、家族全員が家に戻り石むし料理をおこなう。
・四時頃になると雨雲が低くたれこめ、これから日没までが訪問の時間で男は近所の友達をたずねたりする。
・日没前に女は放し飼いにしていたブタを女の部屋あるいは女の棟に入れなければならない。一時間くらいかかることがある。
・日没後は、モニ族も西部ダニ族も妖怪や支社の悪霊がうろつくと信じて外出を極度にいやがる。
・八時頃まで男の部屋で一家ですごし、八時頃女の部屋の炉に火を入れて間を閉ざす。
・夕方やってきた近所の男がそのまま泊まっていくこともある。
一日の生活 ダニ族(243-244ページ)
・朝六時頃、集団生活の男の家で、二階の炉の火を一階に移す。二階は煙でいぶされて寝ていられなくなる。
・前日女たちが収穫したサツマイモを火にくべて食べる。
・女たちは女の家でサツマイモを焼く。
・七時頃、男の家の前の広場に、サブ・クラン全員があつまり、団欒のときを過ごす。
・九時頃になって畑に出かける。
・男たちは共同作業で耕起、柵の修理をおこなう。農業における男の作業はすべて共同労働であるのに対し、女の仕事は個別的である。
・ふだんの畑仕事で男たちの仕事はあまりないが、妻子を手伝うことはしない。ぶらぶらしたり編み物をしたりしている。
・三時頃になるとサブ・クランの全員が共同炊事場に集まり、材料提供者によるわけへだてなく同一内容の食事をする。
・食事が終わってから日没まで、男は自分の妻子のいる女の家を訪問する。
・日没後、男たちは男の家の一階にある炉辺で談笑する。
・七時頃、女の家から女がこどもを連れて、男の家に集まって談話や合唱をする。このとき集落の女の家はすべてからっぽとなる。
・九時頃、女が女の家に帰り、二階の炉に火をうつして寝る。
・モニ族の日常生活におけるつきあいは、血縁関係の親しさよりも友人関係により、社会全体を統率する人物もいなければ、家族単位を超えて血縁なり地縁による統一的な集団が一条生活において形成されることもない。(246ページ)
・モニ族は家族単位の生活の平等性を基礎としており、それが一つのものとして統合されることの少ない、焦点を持たない社会を形成している。(246ページ)
・ダニ族は炊事・食事の共有にみられるように、サブ・クラン単位の共同性がいちじるしい。男の家のリーダーは一人しかいないが、強大な政治権力を持つものではなく、人々の平等原理のうえに実力でのしあがった有力者と解釈すべき存在である。(247ページ)
この家族を分断してまで集団の統合の密度をあげている西部ダニ族の社会は、かれらの整然とした耕地に例をみるように、労働効果の高いものである。また、高地人のあいだで西部ダニ族は戦闘おいて強力な戦士集団をつくることでおそれられているが、このこともかれらの社会構造に関係をもつであろう。 – 248ページ
(コメント)
やはり、同じ地域に住んでいる場合でも、部族ごとに棲み分けがあって、混住ではないようです。
異民族の混住はやはり難しいということなのでしょう。
■あらためての感想■
狩猟採集と農耕の寿命比較によると、縄文時代に15歳まで生きた人の平均寿命は30歳~35歳と推定され、現代の世界の狩猟採集民族14集団の人口統計では、15歳まで生きた人の平均寿命は41歳だということです。江戸時代の農村の宗門人別帳から得たデータでは、15歳まで生きた人の平均寿命は59歳だったということです。
ピダハンでも同様ですが、強力な支配のない社会では、人は短命にならざるを得ないのではないかと思われます。つまり、戦争の抑制、食料の貯蔵、工業や科学技術の発展を支えるのは、強力な支配であり、その結果、寿命が延びると思われます。しかし、必然的に、搾取とコントロールが強まり、人間の手に負えるかどうかわからないほど大量で大規模な問題が生まれてくるという法則が成り立つのではないでしょうか。
争いを避けることができず、文明社会の方法は法による解決のように見えても実際には武力を背景とする一方的な押し付けでしかないのであれば、むしろ彼らのように支配権を争わない戦争を繰り返すほうがましなのかもしれません。
■あらためての感想2(2019/3/8)■
ホッキョクグマ、ゴリラ、オランウータンなど、動物たちの生き方を見ていると、生きることの本来の在り方を教えられます。
一日中遊び、家族や群れで触れ合い、繰り返される世代の間にほとんど違いはありません。ニューギニア高地人などの暮らし方は、そうした動物たちの暮らし方に近く、それゆえに、厳しさの中にもゆとりややすらぎがあり、自分がなぜそうした生き方をしているのかを疑問に思う必要もありません。そんな生き方を許すことこそが、人類が今のような社会から脱却する道のように思います。
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