元和八年(1622)熱田裁断橋 青銅擬宝珠仮名書き 銘文拓本

熱田裁断橋擬宝珠仮名書き銘文拓本
熱田裁断橋擬宝珠仮名書き銘文拓本

熱田裁断橋は、『尾張名所図会』にもあります。

以下上のリンク先ページから抜粋した内容を記します。

裁断橋は伝馬町の東にあり、精進川に架かる橋で「さんだが橋」ともいわれ、昔裁断所があったことから名付けられたとも、「夏越しの祓い」に由来しているともいわれています。

また、『日本霊異記』(にほんりょういき)や『今昔物語』には、尾張宿禰久玖利(おわりのすくねくくり)の妻の強力を伝える話があります。

裁断橋の擬宝珠には漢文と仮名文字で同じ内容の銘が彫ってあります。このうち仮名書きのほうがこの碑文です。


熱田宮裁談橋。右檀那意趣者。掘尾金助公。去天正十八年六月十八日。於相州小田原陣中逝去。其法名号逸岩世俊禅定門也。慈母哀憐余。修造此橋。以充三十三年(卅三年)忌普同供養之儀矣。

 てんしやう十八ねん二月十八日におだはらへの御ぢん、ほりをきん助と申す十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見ざるかなしさのあまりに、いま此はしをかける事、はゝの身にはらくるい(落涙)ともなり、そくしんじやうぶつし給へ、いつがんせいしゆんと、後のよの又のちまで、此かきつけを見る人念仏申したまへや、三十三年(卅三年)のくやう也。

精進川は大正15年(1926)に埋め立てられ新堀川となるとともに裁断橋もその役目を終えました。

裁断橋が出来た時期については詳しく分かっていませんが『名古屋市史』には16世紀の文献にその名が見られるとあります。

裁断橋の擬宝珠の銘にあるのは、天正18年(1590)に小田原の役で死去した堀尾金助(ほりお きんすけ)という18歳の息子の菩提を弔うために、33回忌の元和8年(1622)に母が裁断橋を修繕した際のものです。

堀尾金助のゆかりの地である愛知県丹羽郡大口町には、彼の供養塔、そして、裁断橋と姥堂が復元されています。

『名古屋市史』の裁断橋
 裁断橋は裁談橋、讃談橋、斉淡橋などとも書く。俗に御姥子橋(おんばこばし)または、サンダガ橋という。長さは十間、幅三間一尺の石礎木製である。この橋の名が文献に初めて見られるのは、永正六年(一五〇九)の『熱田講式』や享禄二年(一五二九)の『熱田総図』などである。

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