郷土文化 第23巻第2号(文禄4年清須城三ツ蔵考/暮雨巷暁台の門人 井上士朗/「東新堀川出来奉願上候仕法書」の紹介など)

2019年11月11日

■目次
文禄4年清須城三ッ蔵考…………………横山住雄(1)
暮雨巷暁台の門人(その4)……………….服部徳次郎(6)
斎藤斎宮頭年譜考証(2)…………………安藤武彦(25)
一岐阜在城期までの徳元ー
「東新堀川出来奉願上候仕法書」の紹介……舟橋寛治(33)
郷土忌辰録(その5)…………………….舟橋寛治(36)
雑報(見学記録・手紙の会)………………(42)
名古屋文化史年表稿(12)………………..加藤参郎編(47)
 
昭和43年発行 56ページ
 
■内容について(付録より)
文禄4年清須城三ッ蔵考」:古く清須城下に三棟の蔵があったが、これを造営したのは、福島正則といわれている。慶長の遷府の時、この倉も広井村(広井納屋橋の南堀川東岸)に移され、更に多くの蔵が作られたが、その名は、「三ッ蔵」と呼ばれ、御蔵米を納めていた。 筆者の横山住雄氏は、清須時代の三ッ蔵の造営について「大橋家文書」(蓬左文庫蔵『張州雑志第七十七巻』所収)をもとに論及している。
暮雨巷暁台の門人(その4)」:本誌連載第四回目、井上士朗が今回のテーマである。士朗については、本 誌でも特集(第十六卷第四号昭和三十六年十二月刊)したことがあるが、 筆者服部徳次郎氏の綿密な研究にもご注目いただきたい。森銑三氏は、士朗について、「性質は温厚で、地方の俳人達と交わり、門人は百をもって数える。世人その徳を称せざるはない。士朗は名古屋でいう馬の塔が好きで、昼間は医者として病家を経巡り、夜間は弟子達と街中へ馬を牽き出して、共々に駆けて楽しんだという。士期は快活な、感じの明るい人物だったように思 われる。」(『人物逸話辞典上』)とそのエピソードを紹介されている。
「東新堀川出来奉願上候仕法書」の紹介」:東堀川(精進川)の開削工事は、古く徳川時代に計画されたが、経費の都 合で見送られ、実現にいたらなかった ことは、よく知られている。しかし、 末期に民間から開削を願いでたことに ついてはあまり知られていない。そこで、舟橋寛治氏は、その請願書 の全文を「堀川」研究者の輩出される ことをも願って紹介されている。