戦前絵葉書3枚(青森県三戸)

三戸城山ヨリ黄金橋ヲ望ム
三戸城山ヨリ黄金橋ヲ望ム
三戸つつみ端ヨリ名久井岳ヲ望ム
三戸つつみ端ヨリ名久井岳ヲ望ム
三戸堤
三戸堤
宛名面
宛名面

黄金橋について、三戸町のサイトに次のようにあります。

  南部家の家史や「祐清私記」などによれば、今から六百数十年ほど前のこと、宗家南部氏の中興の大業を成し遂げた十三代南部守行の父、遠江守政行(十二代)の時だった。南部政行は幼名を六郎と称したほど軍忠武にすぐれ、また和歌をたしなみ「筑波集」に

    薪取人や 山路に入ぬらん 船引つなぐ 雪の朝川

と詠み込まれるほどだったという。

ある時、京都に参上した折、将軍足利義満の北山御所のあたりで、春の夕暮れだというのに、秋に鳴くはずの鹿の鳴き声がするので将軍は諸将に「春鹿」の題を与え和歌を詠ませた。政行は、

    春霞 秋立つ霧に まがわねば 思い忘れて 鹿や鳴くらん

と詠んだ。将軍に献上すると大そう感心してその和歌を朝廷に奉ることになった。

政行の和歌を読んだ天皇は、その秀歌ぶりに感嘆し、ほうびとして政行を左近衛少将に任じ、宝器”松風”を名付けられた硯(すずり)を下賜したと伝える。

また勅許を得なければ橋の欄干に擬宝珠を飾ることはできなかったが、あわせてこの勅許を得たので、三戸城下の橋に擬宝珠を飾ることができた。この擬宝珠が余りにも立派に光り輝いて見えるので、城下の人々はこの橋を「黄金橋」と呼んだという。

      (デーリー東北新聞 1989年10月1日 南部ふるさと探訪 歴史とロマン より)

 
「三戸堤」とあるのは、どのようなものなのか詳しくわかりません。
 
在庫の有無については、日本の古本屋にて次を検索ください:戦前絵葉書3枚(三戸・立花商店発行)三戸城山ヨリ黄金橋ヲ望ム/三戸つつみ端ヨリ名久井岳ヲ望ム/三戸堤