福知山長田野演習場 記念絵ハガキ(八枚一組) 日比野専一郎調製

2019年8月12日

 

袋
福知山長田野演習場記念絵ハガキ 袋表面
福知山長田野演習場記念絵ハガキ 袋裏面


福知山長田野演習場記念絵ハガキ 袋裏面

通信面4枚1

通信面4枚1
左上:福知山廠舎ヨリ長田野演習場ニ向フ
左下:福知山長田野演習場不動山ヨリ見タル太鼓ケ原ノ景全
右上:福知山長田野演習場ニ於ケル平射砲実弾射撃ノ実況
右下:福知山長田野演習場歩兵隊ノ活躍
宛名面4枚1
宛名面4枚1
通信面4枚2
通信面4枚2
左上:福知山長田野演習場ニ於ケル軽機関銃ノ射撃
左下:福知山名所音無瀬橋全景
右上:長田野演習場廠舎正門
右下:長田野丘上ヨリ見タル廠舎全景
宛名面4枚2
宛名面4枚2
大日本者神國也に長田野陸軍演習場 ・ 長田野陸軍演習廠舎の記事があります。
長田野陸軍演習場
明治29(1896)年3月14日、陸軍省は『陸軍平時編制』を改定し第七から第十二師團の編成を決定、明治31(1898)年6月19日、天田郡曽我井村(現、福知山市)の新兵営に京都から工兵第十大隊、8月30日、大阪から歩兵第二十聯隊が移駐し、長田野原を演習場として供用を開始します。
使用団隊は歩兵第二十聯隊、工兵第十大隊、舞鶴海兵團、舞鶴碇泊軍艦乗員、舞鶴要塞砲兵でした。
開設当初は射的場(長田野ガスセンター北側の小山が射垜)のみが陸軍用地で、それ以外は周辺村民共有地だったため、しばしば苦情が寄せられ、また次第に植林により演習が阻害されてきます。
明治43(1910)年5月25日、9月19日、臨時陸軍建築部は長田野原1,900,000坪を買収し、長田野陸軍演習場が開設、第四師團管下(昭和15年8月1日、中部軍司令部の管下に)に置かれ大阪、信太山、高槻、奈良、和歌山、深山諸団隊の演習が行われます。
昭和20(1945)年4月、陸軍航空本部は急迫する戦局に、来るべき決號作戰(本土決戦)に備え全国各地に秘匿飛行場の設定を計画、中部地区では粉河、青野原、神野と並び長田野陸軍演習場内に飛行場の設定を決定、7月末、凡そ完成します(中部軍管區教育隊や勤労奉仕隊が設定にあたったと思われますが詳細は不明)が、実戦使用される事無く、8月15日、『大東亞戰爭終結ノ詔書』を拝し、16日、停戦を迎えました。
28日、『戰争終結ニ伴フ國有財産處理ニ關スル件』の閣議決定により長田野陸軍演習場、及び廠舎は内務省を通じ大蔵省に移管、大阪財務局の管理下に置かれます。
演習場の停戦後の経緯は不明ですが、11月9日、『緊急開拓事業実施要領』、昭和21(1946)年10月21日、『自作農特別措置法』により農林省に移管されたと思われ、一部が海外引揚者、復員軍人、戦災者より入植希望者を募集し払下げられ果樹園として、昭和25(1950)年12月、警察予備隊福知山駐屯部隊の編成に伴い一部が再び演習場として使用されますが、大部分は放置されます。
昭和39(1969)年3月、京都府は総合開発計画の一環として長田野工業団地の造成を計画、昭和40(1965)年4月より国有地取得・及び周辺用地の買収を開始し、昭和45(1970)年10月、造成工事に着手し現在に至ります。
一部は現在の自衛隊演習場になっていますが、大部分は工業団地になっているとのことです。袋にある「記念」の意味は不明です。