「インディアンは手で話す」渡辺義彦 (編著)(径書房 1986年10月)

2019年3月7日

インディアンの手話の入門書(翻訳)、手話と言葉を巡る深い洞察、興味深い本の紹介の三部で構成された本

コロンブスが到達した時期に、北米のインディアンたちは多くの異なる言語を話していましたが、特に平原インディアンを中心に手話と呼べる身振り手振りによる意思疎通手段を発達させていたようです。この手話は、特定の話し言葉と結びついていないという特徴を持っていました。

第I部では、このようなインディアンの手話をボーイスカウト用にまとめたテキストであり、絵文字や、物とからだを使った合図(のろしなど)も扱われています。もちろん手話も時代と共に変化しており、飛行機など新しい概念も取りこまれています。

第II部では、手話を中心に、言葉や身振りについて広く考察されており、言葉について考える上で多くの深い洞察を与えてくれます。

第III部では言葉や先住民、霊長類などを中心として、興味深い多数の本が紹介されています。

特にお勧めしたいのは第II部です。抽象概念とは何か、言語によって表現や思考はどのように制約されるのか、文字とは何かなど、手話を中心として広く人間と言語の関わりについて考えさせられます。本来補助的な存在であった言語が、文字を中心とする表現形態によって、次第に人間の行動を支配していく歴史を思わされます。

たとえば、未開民族の伝説の翻訳を読むと、「行って、行って、行って、行って、行った」のような言い回しに出会うことがあります。手話の世界を知ると、このような表現方法が直感的に理解できるようになるのではないかと、本書を通じて感じました。

インディアン関連の本ということで手にとったのですが、手話と言葉について独特な視点から語られている貴重な一冊でした。

内容の紹介

手話には文法がない!?
(前略)
  一方手話は、空間に描くことばだ。 一本の直線ではない。 一次元の表現と三次元の表現の違いがある。 手話は、空間に置かれた手の形、位置、その動きや移動の方向、それに加えて両手のかかわり方で、かなり複雑な内容を表現することができる。 だから、一本の線で表現する音声語のようなこみいった文法を必要としない。 もくもくとわく雲のようなイメージを、かなりそれに近い形で、空間にあらわすことができるのである。 インディアンの乙女のラブ・レター(注:地図のように描かれた絵手紙)を思い出してほしい。 手話はあの手紙に近い。 文章であの地図をうまく表現できるだろうか。 手話の文法は、地形を、文章にではなく、地図にあらわず約束事に似ているかもしれない。 – 263ページ


こうした事実により、言葉の道具性が明らかになってきます。言葉を使うということは、音声による表現に大部分を頼るということであり、空間性を犠牲にすることになるのです。

話しことばと書きことば  文字や文章は話しことばをそのまま記述するものだろうか。 英語やフランス語のような表音文字を使う国ではどうなんだろう。
 木簡などで出てくる文字は漢文だし、明治の中頃までは、漢文が文章の主体で、話しことばとはずいぶん違っていたように思う。 ただ、明治になって、言文一致の運動がおこった。 また、西欧の学問をとり入れるために新しい漢語がたくさんつくられ、学校教育を通じて、抽象度の高いことばが広く国民に教え込まれたため、今では、話しことばも、ずいぶん文章語みたいになってきている。 高等教育を受けた人ほど、書きことばのような話し方をする。 NHKのアナウンサー、大学の教授などはその典型だろう。
  けれども、家族や親しい友達と話すときには、思ったことをそのまま話すときには、思ったことをそのまま話すような話し方になる。 そんなときは、文章語とはかなり違ってくる。

「わたし、きのう京都映画見に行ってん。」

  こんな言い方はよくある。 文章に書くと変だけれど、関西では、ごく普通の会話だ。 助詞などほとんどどこかに行ってしまっている。 なぜ会話ならこれで伝わるかと言うと、リズムやアクセント、間のあけ方やつなぎ方、イントネーションなどが声にはあるからだ。 文章語でどうしても助詞が必要になるのは、話しことばのいろいろな要素が脱落してしまうために、やむをえず使うのだ……そう考えてもいいだろう。 – 255-256ページ

最近の話ことばは、文章化がさらに進んでいるように感じます。情報量は多いようでありながら、感情や余韻のない言葉を話す場面が増えています。

抽象のはしご   手話は写像的な表現だと言われる。 「山」は、山の形を描く。 「歩く」は、人さし指と中指をのばして下に向け、それを足に見立てて、交互に動かし、歩くように進める。 「寒い」は、握った両手のこぶしをぶるぶるふるわせる。 あらわそうとする物事の形や動きなどの何かの特徴を、具体的に描くのだ。 だから、抽象的な概念の場合にはやっかいなことになる。
「蛙」「蛇」「ゴキブリ」……こういうのは大丈夫だ。 「ライオン」「クジラ」「カラス」……これもいける。 「動物」になると、ちょっとやっかいだ。 「生物」はほとんどお手上げになる。 「有機物」「物質」となると手のほどこしようがない。
  ある共通の特徴に注目して、その特徴をもつものをまとめることを「抽象化」と言う。 「動物」というように抽象したことばと、「植物」というように抽象したことばを、さらにまとめて、「生物」ということばをつくる。 このようにして、抽象のはしごができる。 はしごの下の方は、特徴が形や動きにあらわれているが、はしごの上の方になると、特徴は目に見えない「性質」のようなものになる。 だから、手話にあらわすのがむつかしいのだ。 「抽象」という表現自体が、手話にはない。
  抽象のはしごはどうしてできたのだろう。 インディアンやアイヌは、「動物」などとまとめたりしない。 鹿も熊もふくろうも、人間と同じように生命があり、霊をもった平等な存在だと見ているからだ。 「まとめる」ということは、ちょっと高いところから離れて見るということだ。 「人間だけは違う」……と考えないと、「けもの」だとか「動物」だとかいう言い方は出てこない。 抽象のはしごは、人間の文化がつくったものだ。 だから、文化の型が違うと、はしごの高さが違ったり、はしご自体がなかったりもする。
  抽象のはしごが高い社会は、文明社会だと言えるだろう。(いいか悪いかは別にして。) 抽象のはしごが高いと、昇り降りが大変だ。 自分で実感できないことばがありすぎて、ことばにふりまわされることが多くなる。 それに、抽象のはしごと同じように世の中もはしごになっている。 抽象度の高いことばをあやつる人が、社会のはしごのてっぺんにいて人をあやつることにもなる。 「玉ネギ」「大根」「卵」と言ってくらしている人は、「食料」「貿易収支」と言ってくらしている人にあやつられる。 世の中のはしごも、抽象のはしごも、誰でもいつでも昇り降りできるようにしておく必要がある。 – 267ページ

たとえば、ピグミーは森の神について多く語る言葉を持たない。 白人が聞き出した内容は白人の求めに応じてその場で産み出されたものであって、森の神の姿を言語化する必要のない世界でピグミーは生きている。 「神」という表現さえ正しくないと言えるだろう。

私たちが抽象概念を必要とするようになったのは、本来の生き方を離れて、無理に農耕・牧畜・定住・都市化という生き方をしているからなのだろう。 すなわち、抽象概念をできるだけ必要としない世界に戻ることが人類にとって本来の生き方に戻ることを意味するのだろう。