「ココ、お話しよう」F・パターソン (著), E・リンデン (著), 都守 淳夫 (翻訳)(どうぶつ社 1984年1月)
手話を通じてゴリラと語る。
1984年発行の古い本です。当時も読んだのですが、その後、私が言語について考えたり、ネコと暮らしたりしたことで本書に対する評価がどのように変わったのかを知りたく、再読しました。
ココは1971年生まれのマウンテンゴリラのメスです。一歳を迎えたばかりの時期からアメスラン(アメリカ手話)によって人間と意思疎通を図ることを目的に、実験が開始されました。アメスランを使った先行研究としてチンパンジーのワショーに対する研究がありました。
本書では、こうして始まったココの言語学習の様子や、ココの将来の伴侶として迎えたオスのゴリラ、マイケルとの関係など、ココが10歳を迎える頃までの様子が記されています。残念ながらマイケルは2000年に亡くなり、ココは赤ちゃんを授かっていません。
パターソン女史の研究は、統制した条件下での観察に加え、ココが自分の意志で自由に話したサイン語を逸話的に解釈する、事例研究法を取り入れたことに大きな特徴がありました。このため、過剰解釈と思われる部分もある一方で、厳密さを求めるアプローチだけでは得られない成果が得られているとも感じます。
ココは猫をペットにし、可愛がっていた猫の死を悲しんだゴリラとして最近でも報道されているようですが、この本の発行後に会話能力を向上させたというニュースは聞きません。どうやら、ゴリラが手話を使って会話できるとしても非常に限定的なようです。
私は、以前は、ヒト以外の動物も言葉を使うかどうかに興味がありました。しかし、ヒトの本来の生き方を探るなかで、言葉の機能を疑問視し始めました。『インディアンは手で話す』では、抽象概念を手話で伝えることの難しさや、抽象の階段が多いほど、社会の風遠しが悪いことを知りました。『ピダハン』は、直接経験の大切さ(したがって間接情報の無意味さ)を教えてくれました。本書にもあるように、ヒトがこのような言語能力を手に入れたのは割と新しく、ホモサピエンスになってからであるということも知りました。
こうした知識を得た上で、本書を読んでいくと、言葉を使うということの難しさや、言葉が決して確固としたものではないという事実に思い至ります。
言葉を使うには、言葉を使うための労力が少なくなければいけません。また、ぜひとも言葉を使いたいという生き方をしていなければいけません。お互いに言葉の意味を確認できる必要もあります。
たとえば、ココは鳥のサインを教わったとき、パターソン女史が頭の上にもちあげていた本や、ココを外の世界から隔てている窓にたいしても鳥のサインを使い、ココから高く、遠く隔たったものという意味で使ったといいます。お互いに意味しているところが違いすぎれば意志疎通はできません。
ココはサインに加えて表情も用いています。疑問形をサインで示す代わりに、表情によって疑問を示します。表情だけでなく、状況も言葉を省略させます。家族内の会話が短くなりがちなのは、云わずともわかるからです。
ココはわかっているはずなのに冗談めかして間違った答えをしたり、一旦サインを習得すると、すぐにテストに協力しなくなったりします。動物にそんな能力などないと考える人からすれば、初めからできないのだということになるでしょうが、「つまらない」「めんどくさい」「むずかしすぎる」などというココの感情がその反応に入っていなかったと言い切ることもまたできないと思います。
事例研究的な手法を採用したこともあり、ココは、いわば家族に話すときのような省略した会話が可能でした。一方、ココと女史や助手たちとの間以外に、ココがお手本にできるような会話の場面はほとんどありませんでした。ココはまた実物を見ることよりも、写真に撮影されたものを見せられることのほうが多い状態でもありました。そうした状況がココの会話の発達に影響した可能性があります。
本書では、ゴリラやチンパンジーは、大脳の発達に資源を回すよりも、筋力の発達を選んだ動物であり、人間は筋力の発達よりも大脳の発達を選んだ動物であるという指摘があります。生物の体は、あちらもこちらも両方発達させるとはいきにくいようです(ネオテニーもその一種)。おそらく人間は、肉食の比率を高める方向へと進む中で、共同で狩りをする必要性から、大脳の発達する方向へと進んだのでしょう。しかも、直立が喉の構造を変えていき、ホモサピエンスとなったときに複雑な発音の可能な喉へと変化して言語能力が発達したのでしょう。このようにみると、言葉を獲得したのは、紆余曲折を経て偶然大きくなった大脳と偶然柔軟性の増した喉がもたらした偶然であることがわかります。
本書では、言語について深く洞察することよりも、ヒト以外の動物にも言語能力が認められるかどうかという点や、その一環としてゴリラの心を知ろうとすることに注目されています。そのため言葉の本質についての考察は少ないのですが、それでも、言葉を使うための労力の問題、言葉を使う環境、言葉の性質などについて見直す上で役に立つと感じました。
内容の紹介
議論の紛糾する中で、オランウータンの脳が、言語進化についての形態的特徴では、もっともヒトに類似していると主張する科学者もいる。 – 37ページ
遺伝子解析によれば、オランウータンは、ヒトから遠い霊長類であることは間違いありません。しかし、多摩動物公園のジプシー、福岡市動物園のユキなどの動画を見ていると、ゴリラやチンパンジーには感じない親近感を覚えます。ちなみにジプシーは60歳という高齢で、キキと血縁関係はありません。
(ワショーの実験を行った)ガードナー夫妻が問いかけていたのは、身体の形態や行動などすべての面に連続性が認められるのに、なぜ伝達行動にはそれが存在しないのかということに過ぎなかった。 – 48ページ
猫と暮らしていると、猫が意志を伝えようとするかどうかや、そのときに使う鳴き声は、相手の反応に応じて変化する場合があるとわかります。言葉を使うことはできなくても、伝達行動自体を否定することはできません。
ところが実験をはじめたその月のうちに、ココは、教えられたサインの形を自分で勝手に変えたり、新しいものにとりかえたりした。 – 92ページ
言葉は使いやすいように変えられていくものなのだ。
ココが質問するときに、きまった形のサイン、たとえば疑問符などを、ほとんど使わなかったのは、私たちが教えなかったからだけではなく、ココ自身、抑揚をつけてつくる疑問文で用が足りたからである。 – 124ページ
ココは、手話と同時に眉を上げることで疑問を表しました。よく知った仲間と対面で伝達するときは、こうした方法でこと足ります。
以上のような単語の過剰一般化の例によって、ココは単語を覚えながら、同時に、この新しい道具を支配している規則を夢中になって調べていたことがわかる。「とうもろこし(corn)という単語を言うとき、ココは、あるものには、あるラベル(名前)が対応していることを学ぶだけではなかった。「とうもろこし」は小さくて食べることのできる穀物粒を意味するものとして理解したのである。 – 128ページ
ココは、ソラマメやエンドウマメ、ザクロの実も「corn」と呼びました。私たちも、「ムシ」や「ゴマ」と表現している対象は個人個人でかなり違っているかもしれません。そうした流動性、ダイナミックさを前提とするものが言葉なのでしょう。
それでも、ココが英語をきいてわかるようになってから便利なこともあった。ほかの仕事で私の両手がふさがっていても、口頭でいいつけるだけで、ココに自分の部屋の掃除をさせることができた。ココは、間違いなくスポンジを取りにいって、自分のつくった汚れをふきとっていた。 – 139ページ
この後、ココが本当に英語を聞き取っているのか他の情報を読み取っているのかを試すテストを実施しています。ウチの猫は「ゴハン」と呼べば起きてきます。
けれども、“何が おきたの?”とか“なぜ~するの?”といった疑問文に答えるとき、一種のためらいがみられた。回答が落ち込んだ理由の一つには、このような質問を発する場合、ココをしかることが多かったからであろう。ココが何かいたずらをすると、“どうして そんなことを したの?(Why did you do that?)”とたずねたのであるが、こういうとき、しばしばココは話題をはぐらかして変えようとしたり、悪事を働いた現場から逃げだそうとするのだった。 – 153ページ
早合点したり、隠しだてしたりして、会話が成り立たないのはよくあることですね。
今日までの分析によって、類人猿は、英語の話し手とは異なり、サインを付加させたり、サインを一定の語順に並べたりして複雑な陳述文をつくることは、比較的やらないことがわかってきた。そうはいっても、このことだけから、類人猿には複雑な陳述を行う能力がないとはいえない。サイン語には、文の長さを増さなくても文に複雑さを加えていく方法があるためである。 – 164ページ
音声という手段が制約を作っていることもわかります。例として、「It was a thrill to watch the sunrise this morning.(今朝、日の出をみて感動した)」という文は、サイン語では語順の制約はほとんどなく、おこった順に並べられることが多いので、「Now morning, sunrise, I look-at, thril(今の朝、日の出、私 みる、感動)」と翻訳されることが多いといいます。
まだ十分にはわかっていないが、サイン語は、人間の命題能力を発達させた、さまざまな課程の相互関係について、ある洞察を与えてくれるかも知れない。類人猿の、身ぶり語による言語実験が成功したことも原因となって、人類は、音声による有節言語(かぎられた数の、意味を持たない音の単位である音素により、意味をもつ単位である形態素をつくりだす言語)を使いはじめるまでは、身ぶり言語を伝達のために使っていたという、古い仮説が復活してきた。この仮説は、言語の発達と命題能力の開花を結びつける手段を、私たちに提供しているものである。 – 168ページ
チンパンジーはジェスチャーを使いますし、ブッシュマンは狩りの現場で声を出せないとき、手話を使います。
ひとり言も、ココのひとり遊びの一つである。人間の子どもは、ことばを身につけはじめたばかりの頃には長時間にわたり、ひとり言をいって過ごしている。 – 196ページ
保育園にいる一歳時の発話は60%がひとり言で、四歳になっても28%であり、ココはそれほど高くないまでも、よく自分に向かってサインしているそうです。私たちは、まだ言葉を知らなかった頃の記憶を持ちませんが、この期間に、言葉を使った思考を身に付けるのでしょう。ココはサインしか使えないので画像を思い浮かべなければ言葉で思考できないことになるでしょう。音声を使えるということは、思考の面では、大いに有用であったようです。
私がココの仕事をしていたとき、一人のボランティアがきて、こぶしをつくった両手を打ちあわせるのはどんな意味かとたずねた。私は「追いかける(chase)」という意味だと教えて、なぜそんなことをきくのかとたずねた。彼女によれば、マイケルが自分に向かってこのサインをしつづけたのだという。いくらサインしても彼女がいっこうに反応しないので、マイケルは彼女の手をとって、それを打ちあわせてから、彼女をひと押ししてきた、ということであった。 – 232ページ
少なくともマイケルは、手話で第三者に意志を伝達しようとしました。ココやマイケルに関わる人びとがサインを理解できないと、サインを使おうとする動機は下がることでしょう。
私たちはゴリラになろうとして失敗したのではない。それと同じように、ゴリラも人間になることに失敗してゴリラになったのではない。 – 283ページ
すべての生物は、今の生き方が概ね最適な生き方なのでしょう。その中でしかし、少しずつ変異が積み重なることで、地を這う生き物が体を持ち上げ、恐竜が鳥になり、ヒトが有節言語を使うようになりました。有節言語を使うようになったのは、人類史から見てもほんの最近のことです。ならば、まだ、有節言語を使うことを肯定的にとらえるのではなく、否定的にもとらえてみる必要があると私は思います。
人間は、自然の変化の犠牲になるよりも、自分の手で問題を受けとめ、食物の自然採集を組織化して、収穫をもっと予測できるようにしようと決心した。こうした過程には、共同の狩り、わなと武器の使用、最終的には農耕の技術がふくまれる。自然と生物との相互作用を進化要因として重視する。 – 284ページ
多くの人類学者は、農耕の開始を問題視し、自己家畜化を警戒しており、この部分の記述とは違う見解を持っています。私は、ヒトが健全性を保つには、自然の変化に身をまかせるしかないと考えるようになりました。
類人猿を凌ぐ、はっきりとした人間の進歩の一つは、話すための装備があることにより、両手が他のことでふさがっていても話ができる点である。 – 285ページ
情報の伝達が大きな意味を持つ狩猟採集という生き方と、有節言語の利便性が結びついて人は言語の利用を拡大していったようです。しかし、有節言語には、直線性という特徴があり、思考を言語化するという大きな作用もありました。
ゴリラは進化的にみて、周りの世界にたいして、人間よりも、情動活動を支える内臓反応を軸にして対処するように拘束されている。彼らは、その情動を、人間のように抑制しきれないままである。 – 287ページ
ヒトと違って肉食にあまり依存しないゴリラやチンパンジーは食事にかける時間が長く、特にゴリラは草食動物的な性質を高めています。そうした点も言語のために利用できる資源に影響してくるようです。
時間の観念を、固定的で加算的なものと考えたのは、西欧思想であった。この思想を変革したのがアインシュタインの相対性理論であったことは、記憶にとどめておいてよい。西欧以外の社会においては、時間は、また異なった意味で理解されていた。ポリネシア人たちが理解する時間は、もっと主観的であった。この人たちにとって、時間は、子どもの頃はゆっくりと、おとなになると、はるかにはやく過ぎ去っていくように感じられていたらしい。ニューギニアのある原住の人たちにとっては、時間とは、自分の記憶容量をこえない範囲の、過去後世代をこえるものではないといわれていた。この沿岸地域に暮らす住民の三つの世代の人たちに、世界のはじまりはいつか、と同じ質問をしたところ、答えはそれぞれの世代の五世代前、という点で一致していた。 – 288ページ
ヒトという生物や言語について調べていくうちに、物理的な事実が大切なのではなく、どう把握しているのかが大切なのだということを知りました。物理的な事実に沿って社会を作り上げていくということは、おそらく最悪の選択であり、言語の持つ負の影響の一つであろうと思います。
抽象の世界に飛躍しようとすると、私たちはおのずと、象徴と象徴を相互に関係づける、一定の規則の備わった世界に入っていく。この抽象の世界の規模は、多くの事象によって決定されている。この世界に入る主要な条件は、人間にとっても動物にとっても、生きものがその生活のわずらわしさから抜けだして、仮説、類推といった命題世界に入るだけの時間的余裕をもつかどうか、ということにかかっている。生きるための活動にもどそうとする要求は、その生き物が抽象の世界を発達させることを制限し、ひとたびこの世界に入った後も、影響を及ぼすであろう。 – 290ページ
『インディアンは手で話す』にあるように抽象化が進むほどに、社会の階層は増します。抽象概念はまた、証明の方法もない概念です。遊動する狩猟採集者たちが、移動生活の制約から社会制度も儀礼も発達させてこなかったことに希望を見るとすると、ここの記述は、逆の意味を持ってきます。
ココは、ゴリラとしては異常な状況の中で生活している。ことばは、ココが養育されてきた人間環境にとって不可欠なものである。しかし野生状況でなら、ココはことばがなくても、少なくとも、仲間と伝達しあうためにゴリラが発達させた、いかほどかの身振り語さえあれば、うまく生活できたはずである。その点、人間は、生存そのものがことばに依存してしまっているのである。 – 295ページ
わが家の猫たちを見ていると、言葉を持たないからお互いの関係(親子、兄弟、血縁関係なし、雌雄)を知らず、私たちとの関係も知りませんが、何の問題もありません。そうした世界を知ると、私たちが言葉を持つせいで、知ってしまうことや、知っていると思い込むことは、メリットではなくデメリットであると思えてきます。
(「訳者あとがき」から)
人間が進化の途上で、いつ有節言語を獲得したのか、その時期も、また定かではない。最近、化石人類の咽頭部や喉頭部を復元し、コンピュータ・シミュレーションによって、母音の形成実験がおこなわれている。それらの成績によれば、人類が有節言語を獲得した時期は、ホモ・サピエンスに進化してからのことらしく、オランウータン科の系統から化石人類が分岐したはるか遠い過去を思えば、きわめて新しい出来事だといえよう。 – 320ページ
1000万年近く前に分岐した人類が、有節言語を獲得したのは、20万年前以降ということになります。7万年前頃に1万人未満まで減った頃が有節言語の誕生時期なのかもしれません。こうした言語が、累積的な技術を可能にし、網を用いた水産資源の利用や、収穫まで手をつけないで待つ植物栽培を可能にしたのでしょう。それと同時に、言語能力に優れた者が優位に立つ社会や、抽象概念の創作による影響力の行使が始まったのでしょう。こうした恐ろしくもある道具を持ちながら、狩猟採集者たちが平等社会を作り上げる理由を分析すれば、支配者を作らないための条件が見えて来そうです。
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