自由気ままな狩猟採集生活から所有と権力の文明社会へようこそ(コロナ覇権)

本日もお付き合いいただきありがとうございます。
いつもながら唐突に本題に入らせていただきます。

私は数年前、人の本来の生き方を知ることをテーマに本を選び読書を続けていました。

動物たちの生き方についての本や、心や体の仕組みについての本なども読みましたが、特に力を入れたのが、人の元々の生き方である狩猟採集生活や、そこから少し農耕に足を踏み出した未開農耕生活の人びとの暮らしについて書かれた本でした。

多くの本が、生きることの現実を教えてくれました。老人や障がい者を大切にするような余裕はなく、生まれてきた子も育てられないと見れば命を奪われる。そんな残酷な世界が広がっていました。しかし、そうした生命のあり方は動物たちの向き合っている現実とも共通しており、私たちが毎日のように聞くことになるあらゆる人々を等しく守ろうとする現代の価値観と、そうした未開世界の現実とのどちらが本当なのかと問われれば、未開社会に軍配があがるように思えるのでした。

それはさておき、人の本来の生き方や理想的な生き方を探して読書を進める私が辿りついたのは、「生命は利己性が勝らなければ子孫を残せない」というような表現もできる、興ざめしてしまうような結論でした。

狩猟採集社会は基本的に権力者がおらず、平等性の高い社会ですが、その平等社会はあっという間に失われるものでした。

たとえば、希少性の高いモノの独占が許されることで経済的な差がつくことがあります。珍しい樹液を出す木だとか、いつも獲物が見込める、海の中の穴などがこれにあたります。

獲物を得るために、ある程度の投資が必要な場合、たとえば、設置式の大型漁具だとか漁船を必要とする場合、そうした資産の所有者が、暮らしに余裕のない人々にこういった資産を利用させることで、一定の分け前を取るようになれば、資本家と労働者の誕生です。

食べ物を長期保存する方法ができると、より多く収穫してより多く保存した一族が生活を安定させ、家族を増やしていくことになります。労働の対価として使うこともできたかもしれません。

平等性の高かった狩猟採集社会はあっという間に姿を消し、資本家・資産家になっていくものと、生き残るために彼らの言いなりになるものとの違いが生まれてしまいます。

日々を動物らしく、アドベンチャーゲームをプレイするように楽しく生きていた生活は終わり、資産家たちのさらに資産を増やそうとして作り上げたルールの中で、何とか生き残るために、あくせくする暮らしが始まりました。

 

学校教育やマスコミが教える歴史の本当の顔は、こうして始まった、資産家たちによる支配力の拡大の歴史にほかなりません。民主主義だとか男女平等だとか、社会貢献だとか、さまざまな偉人たちの偉業だとか、大多数の宗教の教えというものは、すべて資産家たちが、アドベンチャーゲーを楽しむ動物たちの自由をうばって、自らの資産を守り増やすための道具として生きさせるためのまやかしでした。

 

ダムを作った川に魚は住まず、植林された山に獣は住まず、キノコや山菜を採ることのできる野山はなく、工場や発電所やごみ処理場が海岸を埋め、防波堤を作った海岸で松は枯れて生物の姿もない。農業も漁業も企業化され、種までも管理されて自由に蒔くこともできない。狩猟採集の暮らしも、未開農耕民の暮らしもできなくなった人びとは資産家たちの許可する労働にいそしみ、資産家を肥やす娯楽だけを楽しんで、満足するよう飼いならされる。

 

これが、新型コロナを理由に変えられようとしている現代社会の姿であると私は見ます。