あなたの一生は、経済活動のために終わる。すべては、文明社会を築き上げた資本家たちのために。
私の家の前の道をたくさんの自動車が走る。
いったいどのくらいの車が、本当に必要な活動のために走っているのだろう。
もちろん、たくさんの人が勤務先に向かうために、道路も電車もいっぱいだ。
いったい、どのくらいの人が、本当に必要な仕事をしているんだろう。
教育も、医療も、銀行も、警察も、工場も、畑も、本当は、ないほうが本来的なものばかりだ。
動物たちは、そんなものを持たないで、立派に暮らしている。
未開社会の人たちも、そんなものを持たないで暮らしている。そこにあるのは、本当に必要な活動と、自由になるたくさんの時間、そして自立である。
未開社会の人びとこそが主権者であり、本来の生を体現している人々であり、人類史上もっとも幸福な人びとである。
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文明社会の私たちは資源として活用される存在になってしまった。
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文明社会の囚人たる私たちは、
キリスト教を道具として使う者たちの手によって、
本来の生を捨てて
経済活動のための資源として生きるよう
教え込まれる。
日本の歴史を見れば
キリスト教を使った
こうした経済資源化は
戦国時代に始まった
(余談的話題:
けれど、武力で容易に打ち負かすことも、
大衆をキリスト教徒にすることも難しいと
判断した侵略者たちは別の手段を講じた。
それが、天主をいただく城であり、
ミサを模した茶の湯であり、
日本人がこうしたものを日本的であると感じるように
教え込まれたとき、
日本はすでに奴らの手に渡っている)
265年間の長い徳川期を経て、
ついにキリスト教徒の前に敗れた地域に
できあがった国家は、
キリスト教を道具として使う人々が
どのような価値観の持ち主であるのかを
はっきりと示している。
足尾銅山のような環境破壊
崩壊する地域共同体
人を経済活動のための資源としか見ない
文明社会の運営者たち。
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あなたの一生は、経済活動のために終わる。すべては、文明社会を築き上げた資本家たちのために。
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