大寧寺絵葉書(内湯、掛け軸(法眼永真筆3幅、雲谷等益筆3幅、雪舟筆 釈迦如来・雲谷等哲筆 出山釈迦・狩野探祐筆)14.8.6のスタンプ

大寧寺温泉二湯之内 恩湯
大寧寺温泉二湯之内 恩湯
雲谷等益筆 三幅対
雲谷等益筆 三幅対
左:普賢菩薩
中:釈迦如来
右:文殊菩薩
雪舟筆 釈迦如来・雲谷等哲筆 出山釈迦・狩野探祐筆 寒山拾得
雪舟筆 釈迦如来・雲谷等哲筆 出山釈迦・狩野探祐筆 寒山拾得
法眼永真筆 三幅対
法眼永真筆 三幅対
左:四季花
中:寿老人
右:四季花
宛名面
宛名面
いずれも観光スタンプが押されています。指紋跡やシミあります。
いずれも「大寧寺蔵版」とあります。
 
大寧寺」は山口県長門市深川湯本にある曹洞宗の寺院。天文20年8月28日 – 9月1日(1551年9月28日 – 9月30日)にかけて起こった政変、大寧寺の変の舞台。周防山口の戦国大名・大内義隆が家臣の陶隆房(のちの晴賢)の謀反により、自害させられた。

おもしろ山口学 
サビエルと大内文化 著/山本一成(大内文化探訪会会長)
前編『サビエルの見た山口』
聖フランシスコ・サビエル  イエズス会宣教師フランシスコ・サビエルはマラッカで知り合った薩摩出身のアンジローを案内人としてトルレス神父やフェルナンデス修道士を伴って、天文18年(1549)8月、鹿児島に上陸した。
 同地には約1年間滞在し、領主島津貴久から布教の許可を得て活動したが、その後、平戸・山口を経て都である京都に赴いた。サビエルの目的はキリスト教の布教にあったが、戦乱が続く京都ではその見込みが立たず、わずか11日間滞在しただけで引き返した。
 サビエルは大内氏が支配する山口を布教の拠点として選び、天文20年(1551)春、再び来山した。それは第31代義隆(よしたか)の時代で大内文化の爛熟期に当たっていた。
 サビエルはインドやヨーロッパの同志にあてて多くの手紙を出している。その中で「大内殿は日本最大の領主」、「山口の戸数は約1万以上で、町は極めて繁盛している」、「山口の人々は知的好奇心が強い」などと記している。
 サビエルは山口に約5カ月滞在し、義隆から許可を得て布教し、約500人の信者を獲得したと言われている。その後はトルレスに引き継がれ、山口は我が国におけるキリスト教布教の中心地となったのである。
※全国的には「ザビエル」と表記するが、山口では「サビエル」が一般的

後編『大内義隆時代の山口』
サビエルが「日本最大の領主」と記述した大内義隆(よしたか)は「七州の太守」で、周防・長門(現在の山口県)、豊前・筑前(福岡県)、安芸・備後(広島県)、石見(島根県西部)の守護職を兼ねていた。
 大内氏は14世紀の弘世(ひろよ)以来、約2世紀かかって都である京都から公家文化を移し、「西の京」の建設に営々と努めてきた。それは義隆時代に頂点に達し、京都から多くの公卿が山口に下向し、貴族趣味にあふれた大内文化が咲き誇っていた。
 大内氏による山口の町づくりの経済的基盤は対外貿易の利益であった。当時の東アジアは「海に開かれた時代」で、黄海・東シナ海で、盛んに交易や文化の交流が行われていた。大内氏は対外貿易の中継地である博多をおさえ、この海に積極的に進出していくことによって繁栄したのである。大内氏の眼は都である京都だけでなく、より熱く中国大陸や朝鮮半島、東南アジアなど海外に注がれていた。
 「唐人小路(とうじんしょうじ)」の地名にみられるように、山口には渡来人も居住し、異国情緒にあふれていた。そこへサビエルたちキリスト教の宣教師がやってきて、西洋文化を伝え、山口はますます国際色豊かな都市になったのである。

戦国時代以降の日本の歴史は、侵略をたくらむキリスト教文明との戦いの歴史だったといってもよいでしょう。大内義隆や織田信長が、暗殺された背景には、侵略の意図を読み取った家臣たちによる主君の殺害という構図が共通している可能性があります。
江戸幕府は、西国の大名たちが再度キリスト教文明と手を結んで幕府の転覆をはかることのないように、参勤交代や木曽川治水などの手段によって大名の勢力を抑えようとしていたことも読み取れます。
 
■HY18/08/23-1