蒲生氏郷公之墳墓及画像(会津若松市興徳寺)袋付き

2019年8月8日

 

蒲生氏郷公之墳墓及画像
蒲生氏郷公之墳墓及画像
左:興徳寺三十六世逸伝和尚賛
右:法号 昌林院殿高岩宗忠大禅定門 文禄四年二月七日
宛名面


宛名面

袋
袋(グラシン紙?)
蒲生氏郷(がもううじさと)公については、歴史マガジンに詳しく記されています。
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』で当時の状況が調査・推測されている頃に活躍した人物であり、興味深い点が多い人物です。
・当初キリスト教に寛大であった信長に預けられた。
・本能寺の変の後は、秀吉の臣下となった。
・松阪の領主となっておそらくは松阪商人の基礎を作ることにもなった
・伊達政宗を牽制する目的で移封された会津でも信長の楽市楽座に倣った施策と、商工業者を引き連れたことで、経済基盤を気づいた。
・石垣と天守閣を持つ鶴ケ城を築いた。
・キリシタン大名であった。
調べていくと、当時の西洋人による日本侵略計画の中で浮かび上がってくる人物の一人かもしれません。
 
蒲生氏郷公の墓については会津若松観光ナビに現在の写真が掲載されています。「空風火水地」の五文字を刻した五輪塔であり、この絵葉書では埋もれている部分が現在は掘り起こされているようです。
 
賛を描いた三十六世逸伝和尚については、会津若松神明通り商店街の興徳寺のページに「第三十六世逸伝和尚の時は特に朝廷より紫衣(古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った)を賜った」とあり、会津の里には「1607年26世逸伝和尚は朝廷より最高位の紫衣を賜ったと言う」とあります。後者の26世は36世の誤りと思われます。
 
袋はおそらくグラシン紙で作られた半透明の袋です。
 
(コード:19/08/08-1)