松坂神社 御遷宮祭列 三重県松阪市 松阪神社

 

松坂神社 御遷宮祭列

松坂神社 御遷宮祭列
宛名面
宛名面
「松坂神社」とありますが、遷宮が行われていることから、「松阪神社」であると思われます。松阪神社の式年遷宮については、松阪市のサイトやWikipediaに記載がありますが、松阪神社のサイトには、少なくとも目立つような場所には書かれていませんでした。
 
伊勢神宮と同じく20年に一度行われるとあり、最近では2016年でした。
 
「くしなの御朱印めぐり」の「松阪神社と本居宣長ノ宮参拝と御朱印(三重)」に鳥居付近の写真が掲載されており、この絵葉書と同じ場所のように見えます。
 
松阪神社のサイトから由来を引用します。
当社は古来「意悲神社」(おいじんじゃ)と称し、平安時代以前の創立で、飯高の國式内社九座の一座と伝えられているが、その創立の年代は詳かではない。
室町末期の天正十六年(1588年)蒲生飛騨守氏郷が、飯高郡矢川庄の宵の森と呼ばれていた丘に築城された時に、城の鎮守社と定めて、宵の森の南の丘に社を新たに御造営されて出来た神社である。
氏郷は天正十二年(1584年)秀吉公から伊勢の松ヶ島城主に任ぜられ、近江の國日野町から松ヶ島に移ってきたが、その時この宵の森(古くは意悲の森)の地の利に着目して、この森に築城を急いだ。
またこの矢川の庄を「松阪」と名付けて、城下町を作り始めた。即ち、松ヶ島から強制的に寺社や商人を「松阪」へ移住させ、近江の日野商人も招いた。楽市楽座を実施して誰でも自由に商業を営ませた。
またその頃まで海岸よりにあった、伊勢参宮街道を松阪の中央へ引き入れた。天正十六年に城が完成し、氏郷は入城して「松阪城」と名付けた。
またこの鎮守社に新たに武士尊崇の神である「正八幡様」を勧請して、祭り神として祀り「八幡宮」と唱えた。
 
後世、江戸に雄飛した伊勢商人が生まれた町が松阪であり、近世の商都松阪の繁栄についても蒲生氏郷は、その基をつくったので松阪の功労者と云える。
氏郷は会津若松へ移封となり、文禄四年(1595年)古田兵部少輔重勝が、松阪城主となって入城し、更に自らの信仰していた宇迦之御魂神(稲荷さま)を勧請して、当社に相殿としてお祀りすることになった。
その後、元和五年(1619年:江戸初期)紀州藩徳川頼宣の領地となり、以後の明治維新までの二五○年余り松阪城は、紀州藩伊勢領十八万石の要地となり、城代の居城となった。
この長い年月、当社の社司を勤め、雨龍神社も兼務していた。代々の紀州藩は、松阪着城の都度必ず当社に参拝し、また毎年一月元旦には、常に重臣を名代として参拝させられた。
 
明治維新となり、明治二年天皇伊勢行幸の砌、名代として北大路殿を奉幣使として代参させられた。
明治四年には、郷社に列せられ遠近の人々の尊崇を集めた。
明治四十一年には、時の政府の方針により全国で神社合祀が行われた時、松阪に於いても市内各所に祀られていた十七神社が、当社に合祀せられ、社名を「松阪神社」と改名が許可され、今日に及んでいる。
 
御本殿のご案内
現在の当社本殿は、昭和五年の遷座祭の節、伊勢の豊受大神宮の三御殿の中の一つである、西宝殿をそのまま御下附を受け、松阪市内を「お木曳き」行事を行って造営した神明造の本殿であったものに、千木・鰹魚木・銅板屋根の部分を新しくした由緒のある御本殿であり、飾り金具や御錠・御鍵も共にその時拝受したものに、焼き付けの金メッキを施したものである。
このような豊受大神宮の西宝殿の拝戴は、当地では当社だけであり、江戸時代以来、二十年毎に下附を受け、昭和五年は第八回目の拝戴であった。
松阪神社の本殿は、伊勢神宮・外宮の豊受大神宮の三御殿の一つ、西宝殿を移設・造営して、装飾類を新しくしたものだとのことです。昭和5年(1930)で第8回とのことですので、神社の歴史からすれば新しい出来事のようです。
 
Omairiに拝殿の写真があります。
 
■販売
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