「ヒトと文明 ──狩猟採集民から現代を見る」尾本 恵市 (著)(筑摩書房 2016年12月)

83歳の人類学者はゴーギャンの絵を引いて、人類学は「我々はどこへ行くのか」を探求するという。彼が狩猟採集民を持ちだす意味を知って欲しい。

 
著者は分子人類学者であり、遺伝子の分析からアイヌが白人系ではなく北東アジア系であることを突き止めた学者です。
 
この本は、80歳を迎えた著者が高校生や文系の学生に向けて、理系の学問として扱われている自然人類学について知ってもらうことを目指した教科書として書かれており、著者の経歴をたどる随筆のような要素も持っています。その意味では、新書という少ない分量で一人の学者の長い研究生活の良いとこどりができるお得な本とも言えます。また、自然人類学と文化人類学に分かれた状態を批判しつつ、さらに学際的な研究から総合的な学問へと展開する必要があるという視点から描かれていることも本書の特徴です。
 
著者と人類学の出会いを語った後、デズモンド・モリスやコンラート・ローレンツを引いてヒトのユニークさを語ります。著者の本業である分子人類学の業績から日本人の起源を示し、さらにアフリカで誕生したヒトがわずかな期間で獲得した地理的多様性について、フィリピンのネグリトの研究を示しながら説明してあります。私は以前からネグリトに興味があったのですが、この本でようやく少し詳しい情報を得ることができました。
 
その後の2章が、ヒトと文明について特に重点的に扱った章になります。日々の生活の中で、数万年のスケールで考えることの少ない現代人にとっては、私たちが今置かれている状況を俯瞰してみるという意味で、特に重要な部分でしょう。
英国の文化人類学者ヒュー・ブロディは、現代人が狩猟採集民と農耕民という全く異なる生活様式を持った二つの集団の歴史によって成り立っていると述べている。彼の論点は、第一に、狩猟採集民はわれわれ農耕民由来の都市住民と「同時代人」であり、狩猟採集民がそのまま農耕民に移行・発展したとの考えを否定する。第二に、狩猟採集民が放浪者で農耕民が定住者であるとの広く信じられている俗説を否定し、反対に、狩猟採集民こそ土地との緊密な関係にある定着生活者であると考える。農耕民は実は放浪者であって、たえず分布を拡大して「無主の土地」(テラ・ヌリウス)を獲得する課程で狩猟採集民を放逐または虐待、ときに虐殺したことは歴史的事実である。 第三に、聖書の創世記(ゲネシス)は農耕民の神話であり、ここでは狩猟採集民は無視されている。人類初の殺人(弟殺し)を犯した農夫カインが、かえって他の地に移住して一族を繁栄させるストーリーが描かれている。有名な「生めよ、増やせよ、地に満てよ」という神(ヤハヴェ)の命令こそは西欧を中心とする「文明人」の歴史を象徴的にあらわしている。この人類初の殺人の罪はいつの間に消えてしまったのだろうか。(143-144ページ)
7万4000年前ほどにおそらくはトバ山の大噴火によって絶滅の危機に陥ったヒトは、ボトルネック効果を経て、水産資源の活用などを覚え、アフリカを出て数を増やし始めましたが、皆狩猟採集民でした。狩猟採集生活では、数が増えることで暮らしが厳しくなるという負のフィードバックが働き、人はホメオスタシスを維持していました。少数者が広い地域に展開して居住し、土地を私有せず、食物を保存せず、平等主義が貫かれ、男女は役割を分担し、リーダーはいても身分・階級・貧富の差はなく、正確な自然の知識を持つが故のアニミズムを持ち、散発的な暴力行為はあっても「戦争」はありませんでした。
 
農耕牧畜は1万年前あたりから始まったほんの短期間しか実績のない暮らし方であり、負のフィードバックが働かないという異常な状態の中で人は爆発的に増えて行き、戦争、格差、自然の否定といった問題が拡大していったのでした。著者は指摘していないどころか、かえって信じ込んでいるようですが、私たちが持つ価値観の多くは、この異常な農耕生活が生んだものであることを私は指摘しておきたいと思います。
 
こうした図式は、狩猟採集者が健康な体細胞であるとすると、農耕民はがん化した細胞のような存在に思えます。もちろん、狩猟採集者と農耕民という単純は区分けができないことは、本書で著者も指摘している通りです。
 
さて、こうして、狩猟採集民と農耕民を対比させた著者は、先住民の人権や、今も残る植民地主義、自己規制する発展の可能性へと話を展開していって、終わり近くで「物理学の時代から人類学の時代へ」というモットーが地球を救うかもしれないと述べています。
 
私自身も陰謀論を契機に本来のヒトのあり方を探る中で狩猟採集者たちの生き方に眼を向け、その同時代性、正常性にヒトの未来への希望を見出しているので、本書で著者が狩猟採集者たちを高く評価している点に多いに共感しています。
 
しかし、残念な点も多々見られる本でもありました。たとえば、著者は国際規模の組織をつくる事による規制を主張しています。しかし、大規模な組織はすべて大規模な勢力による影響を受けており、国際規模の組織を作ることは、格差や不平等の拡大にしかつながらないと私には思えます。また、狩猟採集者の社会が、利己主義者による平等社会であるという点が無視されて、ヒトの共感能力や利他主義に未来を託そうとしている点も大きな問題であると見ます。利己主義を前提としなければ現実的な力を持ちえないのではないでしょうか。名前を引いて紹介されている説も、有名である、すなわち、現代文明の支配者たちにとって都合の良い虚構でしかないと私が見なしている説が散見されました。
 
最後に、本書を読みながら気づかされた厳しい現実を指摘して終わります。「沈黙の春」は回避されたのではなく、着々と現実のものになりつつあります。
 

内容の紹介

六〇年近く前に受けた時実利彦(一九〇九~一九七三)の授業を今でも覚えている。彼は、巧みな比喩的表現によって脳の機能を一般人にもわかりやすく説明した。すなわち、脳幹脊髄系は「生きている」(生命維持)、大脳辺縁系は「うまく生きてゆく」(情動・本能)、大脳新皮質は「たくましく生きてゆく」(適応・順応)、さらに前頭葉は「よく生きていく」(価値判断)というメッセージの機能に対応する。 – 51-52ページ
なかなか、直感的な表現であると感じました。私は言語の持つ負の側面に着目していますから、言語野のある前頭葉の働きである価値判断がもしかすると人類にとって一番やっかいなのかもしれないと感じました。
 
前章で述べたように、ヒトのブロンド現象(金髪、白い皮膚、青い目)もヨーロッパ北部で最終氷期後の一万数千年の間に生じたと推定される。このことは、皮膚色を支配する遺伝子(数種類が知られる)に非常に強い自然淘汰または性淘汰が働いたことを示唆する。
  しかし、これらの変化は、おそらく少数の個別的な遺伝子または特定の民族集団にのみ生じたもので、すべてのヒト集団に共通の行動等に影響を与えるような(たとえば、大脳機能をつかさどる)遺伝子の進化は、過去一万年の間には起きていないと思う。遺伝学の常識から考え、そのような進化が起きるためには、一万年という時間は短すぎるであろう。文明は遺伝子進化の結果生じたのではなく、基本的に文化的現象であると考えられる。
  違う意見もある。ヒトの行動が大きく変わったのは約五万年前で、これなら相当大規模な遺伝的進化が起きたかもしれない。コクランとハーペンディングは、比較的最近ヒトに生じた遺伝子の変化を重視している。彼らによれば、アシュケナージ系ユダヤ人の歴史は一二〇〇年に過ぎないが、彼らの知能(例えばIQ値)は他の民族集団に比べて明らかに高く、大脳の機能に自然淘汰によるある種の進化が起きたためであるという。- 125-126ページ
ユダヤに伝わる健康長寿のすごい知恵』を読むと、ユダヤ人の生き方の一端を知ることができます。ユダヤ人の危機回避の能力が、その他の人々にどう影響しているのかを真剣に考えてみたいものです。
 
⑨宗教的思想に関しては、狩猟採集民の「アニミズム」と、多くの文明人の「一神教」とは極端な対比をなす。アニミズム(自然信仰)は、動・植物はおろか山、川、石など、無生物をも含む自然界の万物に精霊(神)が宿ると考える。日本流の言い方では八百万の神である。ヒンドゥー教や古代ギリシャに代表される文明化・シンボル化された「多神教」とは異なり、自然そのもに対する「理解」と「畏敬の念」の現れであり、むしろ環境に適応するための本能行動の一種ととらえられよう。歴史上、多くの文明が一神教的思想の結果として崩壊したことは周知のことである(安田喜憲)。 – 150ページ
一神教と多神教のどちらが本来であるのかといえばどちらも短期的な現象である農耕民の文明が生んだ宗教であるという点で本来ではなく、持続可能性を持つ狩猟採集民の宗教であるアニミズムだけが本来の宗教なのでしょう。水木しげるさんも同じことを言っています。
 
約一万年前、農耕の開始前のヒトの人口はどれくらいであったろうか。これは、遊動狩猟採集民にみられる人口密度(たとえばカラハリ地域のサンでは一平方キロメートルあたり〇・六人)と、約一万年前の地球でヒトが生存可能であった地域の面積から推定できる。研究者によって、三〇〇万人ないし八〇〇万人と差があるが、中間の値をとって、およそ五〇〇万人と理解しておく(大塚)。 – 142ページ
人が少なく、医療や文明の利器はないが、生物の本来の暮らしができた時代。今の暮らしと比べてずっと豊かで、充実や安らぎ、実感があったことでしょう。これを、基準に考えると、農耕民の作った文明社会は、進むほどに本来手に入れていたあらゆる物を失っていっていることがわかります。そして、テレビや新聞、教育によって広められる価値観は、この動きをさらに進めるものばかりであることもわかります。
 
(著書『スモール・イズ・ビューティフル』の)冒頭でシューマッハーは、「現代人は自分を自然の一部とは見なさず、自然を支配、制服する任務を帯びた自然の外の軍勢だと思っている。現代人は自然との戦いなどというばかげたことを口にするが、その戦いに勝てば、自然の一部である人間がじつは敗れることを忘れている。ごく最近までこの戦いは有利に展開し、人間の戦力は無尽蔵という幻想を抱かせたが、かといって、最後の大勝利の展望はまだなかった。今や勝利を目前にして、やっと多くの人々が――まだ少数派ではあるが――この勝利がいったい人類の将来にどんな意味を持つのかを解しはじめた。」(一九八六)と言っている。これほど、。平易に、しかも説得力をもって現代文明の有様を批判した文章を、私は他に知らない。 – 184-185ページ
私自身の言葉にすれば、「世界はヒトの都合に合わせて作られてなどいない」ということになります。『イシュマエル』では、世界が人類に属すのではなく、「人類が世界に属す」と表現されています。生命として存続しようと願うのであれば、私たち自身の肉体を作り上げている、私たちにとってどうすることもできない自然(『覚醒する心体―こころの自然/からだの自然』)を制服しようなどと考えてはいけないのです。
 
しかし何といっても、植民地主義の歴史で最大の加害者であったのは、一七世紀初頭から二〇〇年以上にもわたって世界を支配した大英帝国であろう。しかし、私の知る限り、英国政府または英国人がこの歴史を反省しているようには見えない。むしろ、人類史の栄光と考えこそすれ、過去の事実であり法的には何ら責任をとる必要はない、と考えているふしがある。歴史上の犯罪を過去のこととして反省しない、大国の無責任さ、傲慢さも文明の未来を危うくする要素である。 – 258ページ
お人好しの日本人は、国際金融家たちによって仕組まれたものかもしれない戦争の責任を反省し、英国紳士にあこがれ、欧米の市民社会を賛美してやみません。その裏で、本来もっと反省されるべき植民地主義による先住民、特に狩猟採集者たちの大量虐殺についてはほとんど触れられず、IQの高いユダヤ人たちがナチスを非難し、今も新植民地主義のもと、資源獲得のために先住民たちの土地や命を奪うプロジェクトに資金が提供されていきます。ちなみに、続く段落ではジャレッド・ダイヤモンドの名前を出して、西洋人として植民地の歴史に対する責任・反省の念が感じられないと批判しています。
 
人類が「未開(野蛮)」から「文明」の状態へと「進歩」したとの歴史観は、今でも一般の人々の心に根強くひそんでいる。しかし、人類学ではそのような思想を決して認めず、先史考古学や進化生物学等の科学的根拠を重視して、文明を地球史上の中のきわめて特殊な現象として理解しようとする。これは、人類学の使命といってよい。 – 269ページ
森の人ピグミーは、4000年も前に古代エジプト文明と接触しながら森での狩猟採集生活を続けてきました。マヤ文明を築いたマヤ人の末裔であるラカンドンも狩猟採集生活を送っていました。持続性を持つ狩猟採集生活と違い、文明はきわめて特殊な現象であり持続性のない現象なのかもしれないのです。そうであるなら、私たちは墜落するのではなく軟着陸できることを目指すべきなのでしょう。