丸ビル (主婦之友付録)

 

丸ビル
丸ビル
宛名面
宛名面
主婦之友(第十六巻第九号)附録
昭和七年八月八日印刷納本
昭和七年九月一日發行
編集發行人兼印刷人 八代 登
發行所主婦之友社
こゝへ一錢五厘の切手をお貼ヶください
丸ビル 東京驛前の正面に聳ぇてゐる丸の内ビルディングは、東洋一の厖大な建物で、一階二階を商店にあて、三階以上八階までは全部貸事務所で、事務所の總數は三百六十一、こゝに通勤する者凡そ四千五百人と稱せられてゐます。この附近に海上ビル、郵船ビル、その他の大ビルディングが櫛比してゐて、謂ゆる丸の内ビジネスセンターを形成してゐます。

裁断時に歪みがあり、上部がかなりはみ出して切断されています。

三菱グループホームページに丸ビルの建設に関する歴史が記されています。

丸の内オフィス街のシンボルだった旧・丸ビルは、小彌太の決断によって建てられたものだった。

明治維新後、新政府の軍隊は丸の内に駐屯していたが、政治情勢が安定したため、兵舎を青山に移転することになり、その財源として丸の内地区を払い下げた。入札により、岩崎彌之助が坪単価12円、合計128万円で落札した。三菱合資会社はここにビジネス・センターを建設した。イギリス式の赤煉瓦街『一丁ロンドン』である。第1号館(後の東9号館)の竣工が明治27年、その後、順次、赤煉瓦ビルが建てられていく。

しかし、大正3年に東京駅が開業し、丸の内の事務所スペースが不足してきたため、工期が早いアメリカ式鉄骨高層ビルを建てる構想が生まれた。旧・東京海上ビル、旧・郵船ビル、そして丸ビルの3館である。

しかし、丸ビルはリスクが大きかった。9階建てで、延べ床面積が1万8000坪と、これまでにない大きさ、しかも総工費は900万円、当時としては破天荒の金額だった。今の物価から換算すると、約230億円になる。しかも米国の建築会社と合弁で建てようというのだ。また、当時のビジネスの中心は日本橋・兜町で、テナントが集まるかどうかも全く未知数。エレベーター付きのオール洋式、下駄履きでは入れないようなビルに、下町から事務所が移ってくるとは思えなかった。しかも、時は大正9年で株価暴落、銀行破綻のガラ(瓦落)の真っ最中だった。

合資会社幹部からは慎重論がでた。しかし、地所部の赤星陸治、技師長の桜井小太郎らが建築推進を社内で訴え、社長に直訴した。小彌太は熟慮の末、大正9年 9月に丸ビル建築を決断した。この大英断は丸の内ビジネス・センターのその後の発展のきっかけになった。ただ、やかましいお偉方を飛び超えての提案だったので、赤星らは長らくお偉方に睨まれていたと伝えられている。

国際金融資本に目を向けていくと、ロスチャイルド・グラバー・長州藩・岩崎弥太郎・明治政府というグルグルの関係が読み取れるようになります。

販売

ヤフオク出品中:商品名:HY19/06/26-1