高野山朝鮮陣ノ碑 MONUMENT OF CHOSEN-JIN, MT. KOYA.

 

高野山朝鮮陣ノ碑
高野山朝鮮陣ノ碑
宛名面

宛名面
高麗陣敵味方戦死者供養碑(高野山・奥の院)に、この碑に関する和歌山県による説明文があります。
和歌山県指定文化財
史跡 高麗陣敵味方戦死者供養碑
指定年月日 昭和三十三年四月一日
慶長四年(西暦一五九九年)に薩摩藩主島津義弘・忠恒の父子が高麗戦争における敵と味方の戦死者の霊を供養するために建てたもので日本武士道の博愛精神の発露として知られる。
昭和四十六年三月三十一日
和歌山県教育委員会
財団法人 高野山文化財保存会
菩提所 正智院
戦前発行と思われるこの絵葉書では「朝鮮陣」となっている一方、戦後に文化財に指定されたときには「高麗陣」となっているのは何か意味があるのでしょうか。この碑を建てた島津家は家紋に十字を使っていました。赤十字およびキリシタンと関係があるのでしょうか。幕末には島津氏の薩摩藩は、長州藩と組んで討幕に動くことになりました。忠恒については、キリスト教と薩摩川内に次のような記述があります。

川内での布教と禁教
 それからおよそ半世紀あとの慶長7年(1602年)フィリピン・マニラのドミニコ会は、島津家久(忠恒)の招きに応じて、下甑島の長浜海岸に、フランシスコ・デ・モラレスら4人の宣教師と修道士1人が上陸しました。その時の船長は、地元出身のレオン喜左衛門だったといいます。彼らは6月1日にルソン島のマニラを発ち、7月3日に甑島に到着しました。
 この数年前、1587年には豊臣秀吉により、伴天連(バテレン)禁止令が出されていたのですが、一方ではポルトガル船の来航は歓迎していたため、禁教が徹底していなかったといわれます。島津氏がこのころ敢えてキリスト教を禁止していなかったのは宣教師等を通じて東南アジア等との貿易をするのがひとつの目的であったといわれています。
 ドミニコ会の宣教師達が甑島に到着し3年ほど布教活動をした1605年には島津氏の寄進により、甑島の里村に布教のための修道院を建てたそうですが、数日後には折からの強い台風により倒壊してしまったそうです。その後、1606年(慶長11年)には、許可を得て本土側の水引村京泊の小高い丘にロザリオの聖母にささげられたロザリオの聖母聖堂(天主堂)が設立されました。これは日本で最初の教会のひとつであるといわれています。また、同時にハンセン氏病患者のための療養所が開設されたそうです。
 彼らは当時の厳しい環境下の甑島や京泊に居を構えて布教に努めるかたわら、島津氏の本拠、鹿児島はいうにおよばす、はるばる京都方面へも出向いていったようです。モラレス神父などは、慶長12年、駿府において二代将軍徳川秀忠に謁見もしているそうです。しかし、慶長14年(1609年)、島津藩主によりキリシタン追放令が布告され、さらに1614年には徳川幕府(家康)によって禁教令が出され苦境に立たされました。

敵味方の両方を供養する碑の最古としては、室町時代(15世紀)の怨親(おんじん)平等の碑があります。

島津藩と朝鮮出兵については、島津義弘(しまづ-よしひろ)朝鮮出兵で李舜臣に挑んだ薩摩隼人というページがあります。中でも泗川の戦いでは敵味方に多くの死者を出しています。

3.泗川の戦い
泗川の戦い
図2:泗川の戦い
明・朝鮮連合軍は四路に分けて、中路軍提督 薫一元(とういつげん)は、義弘籠る泗川(サチョン)倭城に向けて進軍しました。
これに対し島津軍は南江(ナムガン)の対岸にある出城の望晋(マンジン)倭城に寺山久兼、永春(ヨンチュン)倭城に川上久智を、また船津浦の対岸の昆陽(コンヤン)倭城に北郷三久・伊集院忠真を配置しました。
薫一元は連日攻撃して、これら倭城を落とし、南江を越えた明軍でしたがこれは義弘の罠でした。
慶長三年一〇月一日、薫一元率いる連合軍が泗川倭城に押し寄せ、矢や銃弾を浴びせました。これに対し、島津軍は一斉に鉄砲で迎撃。
明軍は退却し、島津家記録『征韓録』によれば、このとき打ち取った首は三万八千七百十七であり、これらの鼻を削いで大樽に詰めて日本に送りました。詳しくは泗川の戦いをご参照ください。

このときの鼻を埋葬したのが耳塚です。

高麗陣敵味方戦死者供養碑(高野山・奥の院)の終わりに次のように記されています。

この説明文によると日本武士道=(赤十字の)博愛精神ということらしいですね。でも、ちょっとどうかな?と思うところが私にはあります。それは日本武士道、武士(もののふ)の道というのは主君に対する絶対的な忠義、そのためには何ものも恐れず敵に当たっていくというのが本義だろうと思うのです。博愛精神、即ち敵も愛するということでは武士道が成り立ちません。この件も含め、敵方も祀るといったことが時々見られるのは、心ならずも相手を殺さなければならなくなったとか、祟りを恐れてといったことなどからではないかと思います。そこには多分に仏教的な考えが入っていたのではないでしょうか。朝鮮出兵の際、戦功を確認してもらうために、首の代わりに耳や鼻をそぎ落として持ち帰ったということですから、そのような行為と博愛精神はどう考えても結びつかないような気がするのです。皆様はどう思われますか?

この頃の日本の情勢ついては『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』、赤十字については『血液の闇』という本がでているので一読をお勧めします。

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