「山暮らし始末記」堀越哲朗(著)(太田出版 1999年6月)

消費社会の喧騒を離れて山に暮らし、現代人がどこまで自由に生きられるかを真摯に追求した、労働と思索の記録文学。お金を使わずに生きることも、森の生活を送ることもできない現実を描く。

→目次など


バブル前後の12年間、インドで出会った二人の男女が信州の山に暮らした記録。始末記とあるように、山暮らしはすでに終わっています。ただし、実家のある東京には戻らず伊那谷での暮らしは続いている状況で本書は終わっています。

ヤナの森の生活』など、消費社会に疑問を抱いて新しい暮らしを模索する人々がいます。 一方で、『ゾミア―― 脱国家の世界史』、『人間にとってスイカとは何か: カラハリ狩猟民と考える』、『グアヤキ年代記―遊動狩人アチェの世界 (インディアス群書)』などを読むと、消費社会から抜け出すことは、文明・国家が許さないことがわかります。

実際に消費社会からの脱出を図り、失敗した経験を描いた本書を、上記のような知識と価値観を前提に読んでみました。

1954年東京生まれの著者は、82~84年にかけて1年ほどインドを旅行し、帰国後、インドで出会った日本人女性の行動に促されるように、わずかに住民の残る山奥の集落で山暮らしを始めます。この東京、インド、信州の三カ所が思索の基礎になっています。最初の集落での暮らしは周囲の木々を切り取られ水を確保できなくなって終わります。次に落ち着いたところは、強制離村によって正式な住民のいなくなった村に、都会やふもとの村から人が住みついた廃村跡でした。

電気も水道もない暮らし、自動車の利便性、寂れていく田舎、無法地帯となる廃村、現金収入を得る難しさ、山と文明社会の身なりの違い、いつの間にか忍び込む市民社会に対する優越感と憎悪など、実体験に基づく情報を得ることができます。

山暮らしを断念する契機としては冬の厳しさ、収入源とした町と生活する山の二重生活の疲れ、「自給自足はできても人間関係は自給できない」という事実、(著者は認めていないもののおそらくベジタリアン生活から来る)老いの速さなどがあったようです。

たとえば、極北のエスキモーは寒い場所でも平気で生活できますがベジタリアンになることはできません。また、毛皮がなくてはなんともなりません。エスキモーの世界には大麻もマジックマッシュルームもありません。しかし、エスキモーがそのままの身なりで町に行けば追い返されてしまうことでしょう。スノーモービルやライフルが欲しいとなれば生活は変わっていくでしょう。そして、政府が狩猟を禁止すればそれもすべて終わってしまいます。

このような観点を踏まえて本書を読むと、ヒッピー文化と人間本来の暮らしの違いや、文明社会において山暮らしを選ぶことの絶望的な可能性のなさなどが見えてくるかと思います。

内容の紹介

要するに人は<食う>ために生きているのである。山で長く暮らすにつれて、その思いはいよいよ強くなっていった。(115ページ)

人類史を振り返って文明の意味を考えた私の至った答えもこれに近いものでした。何かを成し遂げようとしてきた人類はこの事実をすっかり忘れてしまったけれど、アマゾン先住民の言葉にあるように私たちは何も成し遂げる必要などない存在なのだと知りました。

新鮮な水と火と空気。まさに一番肝心なものが、今の都会生活には欠けているのだ。(175ページ)

 

闇のある暮らしでは、こんなふうに勘に頼るというか、人間の五感を働かせる度合いがずっと高くなる。(187ページ)

闇のある暮らしでは、目の見える人も音やにおいに頼る割合が増えると言う事実を改めて知ってなるほどと思いました。

莟をつけて新しく咲く花、次第に枯れていく花、結実し種を散らすもの、実もつけずに衰えていくもの、早咲きの花、遅咲きの花……と植物ひとつとっても自然界は千差万別だった。だがそのすべてが日々生成変化を繰り返し、限られた一瞬の命を生き、死滅し、そしてまた翌年になると命の芽をもたげてくるのである。そんな風景を毎年のように目にしていると、これはきっと人間や動物も同じことではないかと思えてくるのだった。(238ページ)

植物を見ているともう寒くなりかけていて花を咲かせることもかなわないのに生えてくるスイカがあったり、成熟する前に冬がきそうなのに結実するトマトがあったりと、個々の芽や実からすれば絶望的な状況が普遍的に存在しています。人はよく、人生、良いこともあれば悪いこともある、最後はプラス・マイナス、差し引きゼロといいますが、そんなの嘘っぱちであるとわかります。

山で暮らす年月を重ねるにつれて、<死>というものがずっと身近に感じられるようになり、それはそんなに抽象的で特別なことではなくなってきた。たしかに死は恐ろしいが、生の営みがあるところには、必ず死も遍在しているのである。ならば、今ここに生きてある一瞬一瞬を精いっぱい呼吸して今日一日を生きることができれば、それで充分ではないか。明日のことはわからないのだ。だんだんそう思うようになってきた。(242ページ)

これは、多くの狩猟採集者たちと同じ価値観であり、人の本来の価値観なのだと感じます。こう考えて生きることで、人は『ピダハン』、ブッシュマンピグミーのように幸せになることができ、やりたくもない仕事を我慢する必要もなくなります。人の本来の価値観は、文明社会における価値観とはだいぶ異なっているようです。

もちろん、大地に足をつけて自然とともに生きることは、それがどんなに厳しいものであっても、都会暮らしの気楽さには置き換えられない<何か>があった。だがそれは決して都会の人々が思い描くようなきれいごとでもなかった。なぜならこの近代市民社会の欲望には限りがなく、それはどこまでも肥大化していくばかりだが、それに反比例するようにして自然や生態系はどんどん崩壊していくからだ。廃村や過疎の山村を取り巻く現実を目のあたりにしていると、この現象はもはや避けえないことはいよいよ自明のことに思われてきた。(259ページ)

これと同じことをブッシュマンの置かれた状況や、東南アジアの熱帯雨林の先住民、ゾミアと呼んだ地域の人々などの状況から感じとることができます。『ヤナの森の生活』に欠落している視点でもあります。文明が人々を支配下におき、消費欲を燃え上がらせている限り、このような暮らしを成り立たせる自然や生態系は崩壊していき、最後には文明そのものが崩壊していく姿が見えてきます。

以前、東北の山中でコミューン暮らしを模索していたあるグループの一員が、雑誌のアンケートに答えて次のように言っていたのを、この頃よく思い出す。「米や野菜は自給できても、人間関係は自給できない」と。(296ページ)

この言葉は、一握りの者だけが違う生活を始めても社会全体の変化を伴わなければやがて立ちいかなくなることを意味しているようです。消費社会が続く中で、身なりも価値観も変えて生きていこうとしてみても、かえって差異が目立つようになって余計に閉じこもってしまう。そんな現実を指摘しているようです。

新聞によると去年の秋、胃癌の告知を受けてからの先生は、自著『さて、死ぬか』(柏樹社)で説いているような正面から死を受容した日々を淡々と送り、最期は家族や弟子たちに看取られながら実に安らかな死を迎えたという。(300ページ)

この「先生」とは東洋医学の診療や執筆をされていた伊藤真愚さんです。こんな風に死んでいきたいものです。

消費社会に疑問を抱いて新しい村作りや自給自足生活をしたいと考えたことのある方に一読をお勧めしたい本です。