「豚と精霊―ライフ・サイクルの人類学」コリン・M. ターンブル (著)太田 至 (翻訳)(どうぶつ社 1993年10月)

■精霊を感じるキリスト教徒であった人類学者が語るライフ・サイクル■ 

森の猟人ピグミー』の著者、コリン・M. ターンブルの本です。

『森の猟人ピグミー』に感銘を受け、続いて本書を読みました。思っていたほどピグミー(ムブティ)に関連するページは多くなく、イギリス、インド、チベットなどでの経験が多く語られており、事前に予想していたよりも読了まで時間がかかってしまいました。わかりにくい記述も多く、先に『森の猟人ピグミー』を読んでいなければ、途中で読むのをやめていたかもしれません。しかし、読み終えた今では、自己啓発、高齢化、青少年などさまざまな分野に関わる前に知っておいたほうが絶対によいと思われる内容が記された非常に重要な本であると感じています。

訳者あとがきにもあるように、本書には、伝統社会の人びとの間にもあるであろうねたみうらみなどの「みにくい現実」が描かれておらず、伝統社会も外部からの影響を受けて変化していると思われるにも関わらず静的に描かれていて、伝統社会をロマン主義的なユートピア像としているという大きな欠点があります。また、本書の310ページから312ページにかけて収録されているブッシュマンの好む物語は、「美しきもの」を手に入れようとして世俗の人びととは別行動をしながら理解を得られおり、死の直前になって「美しきもの」を手に入れるというあらすじです。ターンブルは、この話を引いて、「美しきもの」を追う人生をブッシュマンの理想であるとし、続いて、

どのような文化のもとに生まれようとも、人間は「美しきもの」や「よきもの」に出会うことができる。 – 312ページ

として、人間は美や善に向かうとき喜びに充ちた日々がすごせるとしています。私は、このような考え方は西洋文明的価値観を植えつけられた人びとの限界であり、ムブティの人びとのように、たとえば、森という存在を基準としたあり方が本当なのではないかと思います。

しかし、本書を読み終えて残ったのは、現在の文明社会が持つ病理の原因が見えてきたという感覚があります。

本書から

子供にとって決定的に重要な最初の三年のあいだ、ムブティの母親はいつも子供と緊密な接触をたもちながら、ふたりでひとつの存在であるかのようにすべてをわかちあっている。子供にとってはこの経験が本当に大切である。母親とのこのような関係をモデルにしながら、ムブティの子供は真に社会的な存在として「羽化」してゆく。このモデルの底流には、「相互交流」の思想がある。このモデルは子供の成長過程でくりかえして出現し、すべての人間関係に確実に拡張されてゆく。ムブティの子供は、まったく不可能なことを無理矢理に強要されたりせず、能力に応じて新しい課題にとりくんでゆく。 – 82ページ

 

イトゥリの森に住む農耕民やムブティのような社会では、子供が性的および社会的に成熟する期間に「イニシエイション(成人儀礼)」という通過儀礼が行われる。この儀礼をとおして子供は青年期に移行し、社会的な存在に変容するというきわめて大切な「転成」をとげる。これは社会的にもっとも、重要な儀礼のひとつである。なぜならこの儀礼は主人公である子供たちに焦点をあてていると同時に、社会全体の安寧にも関連しているからである。

この儀礼は、子供たちが性に関する事柄を意識し始めるころに行われる。儀礼のなかで少年少女は、性的な能力をうまく律してゆくことや結婚にともなう責任について教えられる。とはいえ、彼らのような小規模な社会の子供たちは、この時期になればすでに性的な知識を十分にもっているため、性に関して教えることはほとんどない。けれども、この機会に彼らは性の問題にも遵守すべき規制があることを教えられる。この教育は寓話などのかたちをとっており、平穏な社会を維持するために規制がどのようにはたらいているのかを説明している。子供たちは身につけ始めた性的能力を大切にあつかうようになり、その能力ゆえに周囲から敬意をはらわれる。また、子供たちは自分が家族やリネージやクランといった共通の祖先からの出自をたどる血縁集団に所属しているだけではなく、いまやもっとひろい範囲の「社会」のメンバーであることを自覚するようになる。 この「社会」とは、たんに現在の社会全体を意味するものではなく、過去から未来までをもふくんでいる。そして子供たちは創造性にあふれた一人前の人間として青年期にはいってゆく。性的な事柄は個人的な問題ではなく、社会全体と関連づけられるのである。 – 88-89ページ

 

私たちが原始的な迷信だと軽蔑している「妖術」の観念も、社会的には重要な機能をはたしている。多くのアフリカ社会では病人や死者がでた場合には、本人の近親者だけではなく、社会成員の全体が病気や死について再考させられることになる。だれが犠牲者に呪いをかけたのか、すなわちだれが妖術師なのかを追求する過程では、病人や死亡者をめぐる社会関係が公衆の面前でくわしく吟味される。犠牲者が女性であれば、その夫が姦通をおかしていないか、息子は自分の義務をきちんとはたしているか、友人が非協力的だったことはないか、あるいは彼女本人がなにかのまちがいをおかしていないかといったことが問題にされる。だれかを告発した者が、逆にほかの人から糾弾されたりする。そしてやがては敵対的・反社会的な紛争のもとになる葛藤が、すべて人びとの胸のなかからはきだされるのである。

けれどもアフリカでは、私たちの社会の一部のように、つきとめた妖術師をただちに殺したりはしない。多くの場合には二人以上の妖術師が見つかって反社会的な行為をきびしく非難され、犠牲者の家族に賠償を支払う。けれども死者や病人をだしたことい対する経済的なうめあわせという側面は重要ではなく、賠償のおもな目的は、共同体の理想である調和と協力をとりもどすところにある。病気は混乱した社会秩序のあらわれであり、不調和な状態のシンボルと見なされる。 病んでいたのは社会自体なのである。加害者が邪悪な意図をもっていたとうたがわれることはほとんどなく、どちらかといえば不注意だったとされるし、犯罪者としてではなく、人間にありがちな過失をおかした者として遇される。死者がでてしまった場合に人びとは、人間が罪過をおかしやすい存在であり、それが重大な結果をまねくことをあらためて思いおこす。社会的な規範が修復されなければ社会は文字どおり死滅する。 – 206-207ページ

 

西欧社会では、人間の老年期は「黄金時代」であるといわれてきた。けれども実際に老齢に達した人びとは、残酷なかたちでうらぎられることになる。吹聴されてきた「黄金時代」などは絵空事であり、実現するはずもないむなしい約束だったのがわかる。老人は死をむかえるのを待つだけのおぞましい日々を、孤独と苦痛に耐えながらすごすのである。 – 259ページ

 

ムブティは、老人に過剰な期待をかけてはいない。けれども老人が大切な役割を演じているのもたしかである。そのために彼らの社会の老年期は、本当の意味での「黄金時代」となっている。老人は「もうひとつの世界」に近づくにつれて、ますます精霊に親しみ、精霊とともに生きるよういなっていく。そして最後には、もうひとつの世界に生まれかわる。 – 262ページ

本書を読めば、伝統社会を破壊して実現された文明社会が、人を精霊から豚に変える社会でしかなく、人が人として生きるためには小規模な社会とコミュニティの存在が必須であることが見えてくるのではないかと思います。

「訳者あとがき」によると、ターンブルの著作のなかでもっともひろい読者層を獲得したのは、私も最初に読んだ彼の著作である『森の民―コンゴ・ピグミーとの三年間』(『森の猟人ピグミー』)であり、ムブティの世界に深い共感をいだき、経験を表現したことが熱狂的な読者を獲得した理由であろうとされています。 もう1冊の代表作ともいえる『ブリンジ・ヌガグ』(現代は『山の民』)も、一般向けの著作であり、大干ばつの中で「家族」や他者への思いやりを失った人々を描き、批判を読んだとのことです。