「サバンナの動物親子に学ぶ」羽仁 進 (著) ミロコマチコ (絵)(講談社 2011年8月)

動物たちは生と死という大問題を考えたことがある。しかし、死を避ける工夫よりも生を楽しむことに重きをおいている

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帯には次のように書かれています。

動物も人も死を避けるために、いろいろ工夫をします。 しかし、その工夫は「生」全体のあくまで一部なのです。 そんなことばかり工夫していては、「生」の楽しみを忘れて しまいます。 死はせつないけれども、必要なもの、大切なものなのです。 いまこそ、私たち人間は、「生」と「死」を見つめ直す時間 なのかもしれません。

動物は生と死、という大問題を考えたことがあるでしょうか。羽仁さんは、 当然考えたことがあると思うといいます。死を避けられないものとし、生 と死をつながりの中でとらえて、いかに生きていくか、いかに生を楽しん でいくかを動物たちは重く見ているというのです。

エサを獲れず子どもたちを置き去りにする母ライオンと残された子ども たちがみせるなんとか生きようとする姿。誤って子ライオンを殺してしま ったオスライオンを追いだすメスライオンたちの気迫。母をなくしたヌー の子と、子をなくした母ヌーの縁組。他の生き物たちに対する思いやりを 巨体に秘める象たち。動物たちは、心を持ち、死を意識して生きているこ とを伝えるエピソードが続きます。

シマウマの子どもが、チーターに殺されたとき、仲間は逃げ去りはしま せん。いったん逃げても、戻ってきます。そして、死んでいく小さな命を ひっそりと見つめている幼い仲間の死は肉食獣によってもたらされ たことを、草食獣ははっきりわかっており、ときには肉食獣を襲って 「死」の恨みをぶつけるといいます。しかし、死はせつないけれど、 必要なもの、大切なものでもあるのだ、と彼らは考えているのだともい うのです。

羽仁さんは、子どもの頃、肺炎にかかり臨死体験をされたそうです。だか ら、空襲のときにも怖いと感じなかったといいます。

アフリカでは生と死が同じ時間の中にあるが、食う側は食われる側のパワ ーには絶対にかなわない。草食獣たちは明るく軽快に生きている。「生」 は弱いものではなく死のほうがはるかに小さいものなのだ。この生のパワ ーは飛び跳ねる子どもたちを見たときに感じられる力であるというのです。

命の仕組みができてからの長い年月を、命は途絶えることなく続いてきま した。命が続くためにはたくさんの死が必要でした。死を拒めば命も終わ ります。ならば、小さな死を拒むことよりも、大きな生命を楽しむことで 草食獣たちのような明るさを手に入れよう。こんなメッセージが伝わって きます。

ロシア人の探検家アルセニエフが、シベリアの山岳地帯に住む孤独な老猟 師について書いた『デルス・ウザラ』という本が紹介されています。デル スは、森に住む生き物の一員になりきった生き方をしていました。家もな ければ金銭も理解しない。シカを捕えて食べ、残った肉はそのままにして おきます。彼が「人々」と表現する森のさまざまな生き物に譲るのです。

トラやリスに話しかけ、木々とさえ話ができたといわれている彼を自然 の一部に過ぎない人間として、楽しい生を一瞬一瞬に結んでいる存在と してまさにあらゆる生き物たちと同じなのだと認識する羽仁さんは、 今の私たちには、彼と同じようには生きられないとしても、少なくとも 私は心の中では、彼と同じように生きてみたいといつも願っているのです といいます。

このように感じる人々が増え、何がそのような生き方を不可能にしている のかを正しく認識できたとき、人はほかの生き物たちと同じように生きる ことができるようになると私は感じています。

子どもの文化人類学』に描かれたヘアーインディアンも、子育てを遊び と捉え、親子関係を柔軟に組み換え、抗うことなく死を受け入れている点 で本書に登場する動物たちと共通しています。ヘアーインディアンは、 私たちもまた、動物たちのように生きることのできる存在であると伝えて います。

ミロコマチコさんの絵も、重く恐ろしい死と共に、それを圧倒していく 生の喜びが鮮やかに描かれていて感動しましたと羽仁さんが表現するよ うに、文章から受ける動物の印象をそのまま描きだしたような素晴らしい 作品になっています。また、扉に描かれた正面を向いて座る動物たちに混 じるヒトの座る姿も、全裸で描かれていることが象徴的です。

弱い動物たちが肉食獣から逃れるための盾になる巨象たちの姿を見て、 羽仁さんはいいます地球上の生命のバランスを考える責任が、強者には あるのです。私は思います。世界はスッポンの背中に乗っていると考 えていた昔の人々のように、人のちっぽけさに気づいて、ただ宿命に従う だけでいいのではないかと。

人の存在と死について考えさせてくれる、一度は読みたい本でした。

本書を読みながら思い出した本たち。
ピダハン』:生を楽しむ生き方
逝きし世の面影』:生を楽しむ生き方
15歳の寺子屋 ゴリラは語る』:恨みを持たないごりらの心
家畜になった日本人』:ネパールの人々の生を楽しむ生き方
死─宮崎学写真集』:死が多くの生命に新たな生を与える
山暮らし始末記』:自然の中の生死から人の生死に想いを馳せる
本当は怖い動物の子育て』:動物と人の子育てにある残酷な面もまた事実
ハイエナの生態』:狩りに出かける前に意志疎通する肉食獣たち
あふりかのたいこ』:けものにまじる
子どもの文化人類』:死を受け入れ生を楽しむヘアーインディアンの生き方
住んでびっくり!西表島』/『黒潮の瞳とともに―八丈小島は生きていた』:文明/医療を求めた途端に消え去るゆったりした暮らし
マタギに育てられたクマ―白神山地のいのちを守って』:命をいただくということ

内容の紹介

いかに生を楽しむか

動物たちは、生と死、という大問題を考えたことがあるのだろうか。

この本を読まれる方の中には、そんなことは当然だろう、と思われる人もいらっしゃると思います。私も、そう思っています。

しかし、生と死を本当に考えているのは、人間だけではないか。そう信じておられる人々のほうが、圧倒的に多いのではないか、と思われます。

死を意識し、文化の中にそれをとりこんでいるというのは、特異な生き物である人間だけだ、といくつもの哲学の本に書かれています。 死の起源、死後の世界、そして魂の世界なdそういういろいろな形で死を考えてきたのは、人間だけであったとそこには記述されています。

このような記述は、明快に見えるかもしれません。 しかし、じつはそのような定義や記述には、大きな疑問が残ります。 「死」を考えるというのは、それだけが唯一の方法ではない、と思えるからです。 – 6ページ

 

(ヌー母子の養子縁組について)
母と子のつながりが、「本能」によって固定されているなら、養母を探すのは大変な仕事です。 でも、養母、養子の関係が人間の世界に限られている、と見てしまうのは、いささか早計にすぎるのも事実です。 自然の営みはずっと複雑なのです。 – 54ページ

「本能」という言葉で随分嘘を教え込まれているように感じます。 動物たちは人と同じ感情を持ち、相手や状況に応じて態度を変えていることを、ペットの猫たちは教えてくれます。

第1章の冒頭で少しふれましたが、一五年ぐらい前から、オスライオンが、メスと子ども中心の群れに近寄ることが多くなりました。 その背景にはアフリカの自然の変化があったのです。 都市の人口が急増し、産業が発達するにつれて、野生生物と伝統的な生き方をしてきた遊牧民が分かち合っていた大自然の面積は、工場などが進出した結果、激減しました。 – 63ページ

動物たちの柔軟性と、人が理想を目指すことの愚かさの両方を伝える話しだと私は受け取りました。

マラ河を越えるために、ヌーの群れはいくつもつながって現れ、いまでは「大渡河」として有名です。 そこには、ワニの大群が、ヌーの群れを襲おうと待ち構えています。 しかし、三〇~四〇年前にはそんな情景は見られませんでした。

じつはその裏には、人間自身の文化的、経済的な変化が大きな影響を与えているのです。 – 73ページ

実家に帰ると、豊かな自然が残り、動物たちの絶滅を心配する必要などないように見えることがあります。 しかし、四国や九州からツキノワグマがいなくなったように、広い行動範囲を持つ動物たちにとっては、命をつなぐことが難しい環境なのです。 それが、人類の本来の生き方であった、遊動する狩猟採集生活も不可能にしています。 私が文明否定に向いたくなる背景がここにあります。

ふつうライオンは三〇頭ほどが群れをなしていても、いっしょに行動するということは滅多にありません。 しかし、その日は午後から全員が集結していました。 そして、熱心に舐め合っていたのです。

これは互いに元気を奮い起しているときに、よく見るしぐさです。 相手を変えて舐め合い、オスライオンの背中に子どものライオンが乗って舐めたりしています。

きっと、ふだんは手が出せないような大物を、意を決して狙っているのだ、と私は直感しました。 – 109ページ

ハイエナの生態』によれば、ハイエナたちも狩りに出かける前から狙う獲物の種類を決めていて、他の動物には目もくれないそうです。 どのようにして意志疎通を図っているのでしょう。 私たちの知らない世界があるのでしょう。

健康に気をとられ、地震や事故ばかり気にしていれば、楽しく生きることはできません。 はるかな昔に誕生した命が今日までつながってきたのは、草食獣たちや幼い子供たちが示す、「生の勢い」のほうが「死」よりも強いためであるに違いありません。 そのような視点からみたとき、やはり、遠い先のことを考えず、必要以上に規則を作らず、動物に近い生き方を選ぶほうが、人も幸せであるという結論が見えてきます。