「考える寄生体―戦略・進化・選択」マーリーン ズック (著), Marlene Zuk (原著), 藤原 多伽夫 (翻訳)(東洋書林 2009年8月)

寄生体を通じて知る自然界の姿

→目次など

本書の14ページに次のようにあります。

宇宙飛行士が宇宙に長く滞在しすぎると、体の機能が低下し、筋肉が衰えるのはよく知られていることだ。 このように人間の身体は、無重力の環境で生活するようにはできていない。 たとえいいことばかりではなくても、とにかく私たちは重力とともに進化してきた。 病気についても同じだ。 病気は重力ほど生やさしいものではないが、リンゴが木から落ち始めるよりも前から生物の一部として存在していたのだ。

こう語る著者は、サナダムシもノミもいない動物とは、自分以外に誰もい ない万里の頂上やグランドキャニオンの風景のように不自然なものであ るといいます。確かに寄生体を恐怖することは当然ですが、私たちはこの ような寄生体の存在する中で共に進化してきたのであり、重力がなくなる と不都合であるように、寄生体のいない環境もまた不都合なのかもしれな いというのです。

たとえば、性が存在する最も大きな理由は寄生者と病原体に対抗するため であり、攻撃側と防御側とが性によって変異を迅速にしているといいます。 しかし、性淘汰の仕組みとして発展してきた、男らしさの特徴をもたらす テストステロンには、免疫系を低下させるという副作用があり、男は短命 であるという不都合をもたらしてもいるのです。

このように、寄生体を出発点として展開されていく話題は、生物界の複雑 な関わり合いや、不都合な事実を明らかにしていきます。

私たちの気分や性格も、寄生体の影響を受けている可能性があるようです。 宿主を短気にさせることで、唾液を媒介とした感染が実現されるのです。

寄生体は不都合なだけでなくなくてはならないものにもなっています。 腸内細菌は、シロアリにとってはセルロースを消化するために欠かせませ ん。また、無菌状態で育てたマウスは通常の環境で育ったマウスよりも三 割も多くカロリーを消費しないと同じ体重を維持できないそうです。

こうしてみてくると、確かに、寄生体たちがいないならば、もう私たちは それまでの私たちと同じ存在ではありえなくなります。こうした寄生体を めぐる議論は、大型の動物どうしの関係とはまた別の視点から生命につい て考える機会をくれました。

しかし、読後に残るのは、「これは違う」という印象でした。最初に提出 された、「寄生体のいない環境もまた不都合なのかもしれない」という疑 問は深まることなく、むしろ、さらに寄生体を排除しようとする方向に動 きかねない情報が提出されていきます。要約しにくい議論の展開、再確認 のしにくい構成、印象操作ともとれる語句の挿入など、本物ではないとい う印象を打ち消せないでいます。

本書を読みながら思い出した本
動物たちの自然健康法』:植物を虫よけに利用する鳥、土を食べる動物
日本の風土病―病魔になやむ僻地の実態』:寄生虫
サルが木から落ちる―熱帯林の生態学』:命にあふれながら食べ物にも困るせめぎ合い

内容の紹介

現実には、体と心を劇的に変えるのに科学の力はまず必要ない。 寄生者が十分その役割を果たすし、その変え方たるや、一介の映画制作者が決して想像できないほど劇的なものになる。 人間の体を変異させるのは、空想の世界のテクノロジーではなく、体内にひそむ生きた寄生者の都合なのだ。 – 25ページ

 

農業を始めると、人々が村や町に集団で定住することになる。 農作物は、狩りや採集よりも多くの人々を支えるが、一方で人口が増えると、数多くの感染症の「たまり場」が生まれる。 たとえば、はしかウイルスが生き残るには、相当な大きさの人口基盤が必要であり、新たな宿主にあちこち動き回ってもらわないといけない。 人間のはしかは、遊牧生活を送る狩猟採集民の集団よりも大規模な集団を人々がつくるようになってから出現したと考えられている。 – 44ページ

 

食物アレルギーは、衛生仮説の観点で論じられることはあまり多くないが、この風潮も今後の研究成果によっては変わってくるかもしれない。 ノルウェーの研究グループが、卵や魚、ナッツ類に対する子どものアレルギーと、出産方法のちがい(自然分娩か帝王切開か)の関連を探った。 – 61ページ

 

クローン病の原因はわかっていないが、数年前、ワインストックは何人かの共同研究者とともに、近年になって発症数が急増した原因を探り始めた。 この病気が最初に認められたのは一九三〇年代、ニューヨークに住むユダヤ人のあいだでだった。 – 65ページ

 

清潔さと病気は紙一重
健康になるために細菌を摂取し、子どものときに自然に寄生虫に触れていないために病気になる。 こんな状態になったのは、どうしてだろうか。 答えのひとつとして当然考えられるのが、幼児の病気死亡率の激減がもたらした代償だということだ。 誰もが腸に寄生虫をもっていて、食べ物には善悪両方の細菌がうようよいるという世界が本来の「理想郷」なのかもしれないが、その世界に戻れと言っている人はいない。 だが私たちは、細菌を殺して清潔さを保たなければならないという強迫観念にとりつかれているように見える。 – 78ページ

人類は、道具の使用や火の使用を通じて、肉体という宝物に与えられた能力を衰えさせてきてしまったようです。 そんな中で、遊動生活という制限によって、極端に走ることのできない狩猟採集社会は、この状況を進めないための現実的な解決策なのではないかと私は考えています。

いずれにしても忘れないでほしいのは、私たち、そしてほかの生き物が寄生虫をもつべきでないという考え方は、現代になって生まれたものであり、自然の状態ではない。 体内に寄生虫をもち、病気とともに進化してきた時代には、駆虫するという行為は考えられなかった。 寄生虫の卵を一、二個食べてしまう害よりも、土を食べるメリットのほうが大きかったのだ。 – 256ページ

 

近年、抗生物質への耐性をもつ細菌(耐性菌)が、公衆衛生上の深刻な懸念材料になっている。 この事態を受けて、WHO(世界保健機関)は、「薬の歴史」と題した詩のようなものを発表した。

紀元前二〇〇〇年 ほら、この根っこを食べなさい。
一〇〇〇年 その根っこを食べるのは野蛮だ。ほら、この祈りを唱えなさい。
一八五〇年 その祈りは迷信だ。ほら、この薬をのみなさい。
一九二〇年 その薬はいんちきだ。ほら、この錠剤をのみなさい。
一九四五年 その錠剤は効かない、ほら、このペニシリンを打ってもらいなさい。
一九五五年 おっと、病原菌が変異した。ほら、このテトラサイクリンを打ってもらいなさい。
一九六〇年~九九年 「おっと」という事態が、さらに三九回。ほら、もっと強い抗生物質を打ってもらいなさい。
二〇〇〇年 病原菌が勝った!ほら、この根っこを食べなさい。 – 294ページ

WHOに関しては、WHOはあなたを殺そうとしている?などをご覧いただくとして、事実はこの詩とさほど違わないのではないでしょうか。 つまり、病原菌に勝つことは決してできず、ここでいう根っこや祈りのようなもので、対処することが最善であると思えるのです。 実際には、自然療法は続けられていますし、熊の胆なども薬事法で禁止されなければ使われていたことでしょう。 おそらく必要なことは、高い乳幼児死亡率や、寄生虫に感染した状態を正常な状態であるとして受け入れることができる世界観を持つことなのではないでしょうか。 これは、自然界の命のあり方を見たならば普遍的なことであり、人類もほんの少し前までは当たり前に受け入れてきた価値観であると私は見ています。