「アルピニズムと死―僕が登り続けてこられた理由」山野井泰史 (著)(山と渓谷社 2014年10月)

「山に死がなかったら、単なる娯楽になり、人生をかけるに値しない。」


著者、山野井泰史さんの経歴を奥付けから引用します。
「1965年東京生まれ、単独または小人数で、酸素ボンベを使用せず難ルートから挑戦しつづける世界的なクライマー。」
それ以前から有名だったのでしょうが、私が山野井さんを知ったのは数年前だと思います。夫婦で挑んだ山で夫婦ともに凍傷を負い、手足の多くの指を無くしたものの、再度困難な山に挑戦する姿が報道されていました。その後、奥多摩でジョギング中に熊に襲われてニュースにもなりました。

この本は「僕が登り続けてこられた理由」と副題にありますが、山登りに取りつかれて以来の活動を時系列に沿って並べたような構成になっています。その中で、自身が体験した事故や、遭遇した死亡事故、友人知人の死について記されています。そもそも登山に興味のある読者向けに書かれているようで、登山にうとい私にとっては、なじみのうすい用語も多く使われています。妻である山野井妙子さんを初めとするパートナーたちについての一章と、凍傷を負いながらの生還と熊からの生還についての一章も挟みこまれています。

驚いたのは、凍傷で指を失った体験だけでなく、経歴のごく初期に偶然死亡事故の現場に居合わせた体験や、雪崩に巻き込まれて埋まってしまい危うく死にかけた体験もありながら、山登りから遠ざかることを選んでいないということです。

眼もくらむような岸壁に挑むことですら、高所恐怖症の私からすれば人間ばなれした行為です。しかも、ただ登頂して下降すればよいのではありません。合計5kgに満たない、わずかな食料や装備を持ってベースキャンプを出発し、テントで夜を過ごしてから頂上を目指すケースがあれば、14時間半連続で行動して一夜を明かした上で登頂するケースや、60kgの食料や装備を詰め込んで、1週間以上かけて登るケースもあります。すぐに空腹や眠気を覚えたり、疲れをため込んでしまう、常人にはできそうもありません。

そんな辛く危険な行為になぜあえて挑むのでしょうか。山野井さんは、僕は決して我慢してまで登りたくないのです。といいます。

山での死について、「街では生を感じられない」としながら、若い頃、次のように考えていたと記されています。

もしも遭難したら家族がとても悲しむよ……。
――でも、事故や重い病気で亡くなることと、家族の心の痛め方に違いがあるのか。
もしも遭難したら他の人に迷惑かけるよ……
――でも、世の中の人と人の繋がりというのはそんなもんだよ。

雪崩で死にかけて、この考えは少し弱まったようですが、それは間違っていたというのではないようです。あの恐怖感を味わいたくないという身勝手な考えからだと表現されています。

「あとがき」直前にある「アルピニズムについて」からも少し引用してみます。なぜ登るのかが説明されています。

自然を愛しているからという理由だけで踏み入れるのではない。まして自己表現のために高みを望むものでもない。
限界線から一歩踏み出すたびに、生命が躍動した。安住できる土地を離れ、不安や孤独を感じながらも、克服することがより困難で切りたった場所に向っていった。

山で衛星電話を使って情報を集めることよりも、氷河に寝ころんで気温の変動を肌で感じながら出発するタイミングを見極めたい。GPSを持ち歩いて現在位置を確認するのではなく、動物としての能力を発揮できる機会を守っていくことのほうが、山で生き残る上で重要に思えてならない。こう考える著者は、クライマーのなかでも異端なのかもしれませんが、私は、このような価値観におおいに賛同したい気持ちがあります。

内容の紹介

「アルパインクライミングのためのトレーニング」より
  ヒマラヤの高峰を目指すようになると、今まで岩登りのために上半身ばかり鍛えていたものを、必然的に心肺機能を重視したトレーニングに変えてきました。
  1週刊に4回は高低差400~500メートルの林道を、胸が苦しくなるくらいまで走り込みました。奥秩父全山や八ヶ岳などをカモシカ山行、今でいうトレイルランニングをして鍛えていました。
  家でも腹筋運動に加え、酸素をたくさん取り込めるようにと15分は腹式呼吸の練習をしていました。そのほか脂肪はもちろん、大きな筋肉をつけないように注意し、毎日体重計に乗るようになったのもこのころからです。
  体力に余裕があれば登山中でも視野を保て、危険を見抜く能力が保たれるのを経験からわかりはじめてもいました。なによりも、目指していた当時の登山が、体力なくしては決して頂きには到達できないものばかりだったのです。 – 35-36ページ