「東京にカワウソがいたころ」大川悦生(著), 宮本 忠夫(イラスト)(国土社 1987年7月)

ほとんど怒ったことがないというカメばあちゃんの怒りに耳を傾けたい

明治二十四年生まれの梅原か免(かめ)さんらや、か免おばあさんの長女からの聞きとり、佃島漁協や京橋図書館の協力、佐原六郎著『佃島の今昔』などを元に、明治30年代の佃島の様子が子ども向けのお話として描かれています。か免おばあさんをモデルとしたと思われる「カツ」が主人公です。

この話に描かれている佃島は、まだ渡し船に乗らなければ渡れない島になっていて、島の男たちは東京湾に漁に出て生計を立てていました。

島の子は つくだの国と おぼえて居

こんな句があるほど、島の人たちは小さくても自分たちの島として誇りを持っていました。「東京に行く」と表現していたように、つい目と鼻の先でありながら、島は別世界であり、島であったおかげで、学校教育や警察による統制も甘かったらしい様子がうかがえます。

この美しい島で、嫌な勉強はさっさと放棄して、警官をからかったり、裸になって川で泳いだり、住吉神社の本祭りを楽しんだり、佃煮の原料をつまみ食いしたりしながら、カツの子ども時代がすぎていきます。

それは、東京にもこんな自然に囲まれた暮らし、まずしくも充実した日々があったのかと思わせられる世界です。漁師たちは舟を出しさえすれば、暮らしに困ることはありませんでした。美しい川では季節になればシラウオも取れました。

めったにおこらないカツが、ばあちゃんになって本気で怒ったのは、川の水がどんどんよごされて、さかながとれなくなったころでした。

「としよりになっちまったら、着物も、うまいもんもほしくないよ。けど、国のえらい人にいってやりたいネ。むかしのとおり、橋の下で子どもが泳げて、さかなのとれるつくだ島にしてくれって。えらい人には目がないんだろ。あったら、ここへきてみるがいいや」

関東大震災でも、戦争にもこわされることのなかった、ふしぎな島、佃島が、いっぺんにかわってしまったのは、昭和39年につくだ大橋ができて陸続きになったためでした。

この本には、私たちが近代化によって失ったものは何なのかがはっきりと記されています。失ったものはあまりに多く、本当に得た物はおそらく何もありません。字が書けなくても、医者がいなくても、自然豊かな島の暮らしは、島を護る不思議な力を感じることができるほど確かでした。

社会を大規模にしていく方向ばかりが称賛されて、こういう本が流通することさえ、最近では少なくなりました。貴重な一冊と思います。

内容の紹介

漁師はさかなさえとれれば、字なんか知らなくたって、らくにくらしていけました。 – 25ページ

カツは勉強が嫌いで、学校の代わりに生かされた教会へも3日しか行きませんでしたが、父親は怒りませんでした。

「あまっちょが、そんなかっこうで泳いじゃいかん。あがってこい」 – 38ページ

着物をぬぎすてて、すっぱだかや、パンツ一つになり、橋の下で泳ぐカツたちに、島外からきたおまわりさんが怒ります。江戸時代から続いていた、裸体をさらすことの多いおおらかさのほうが、生物的なあり方であり、失ってはいけないものと私は思います。

白魚漁は三月までつづきましたが、だれでもとれるものじゃなかった。徳川幕府によって、この漁ができるのは、つくだ島の漁師ときめられていた。 – 90ページ

徳川期が260年も続き、町人文化がさかえたことに注目すれば、明治以降のほうがずっと政治が悪くなったことがわかりますよね。