『大阪』大阪城公園、蛸石と振袖石

『大阪』大阪城公園、蛸石と振袖石
『大阪』大阪城公園、蛸石と振袖石
宛名面
宛名面

共に櫻門内にあり蛸石は備前池田候の献じたもので高さ八米横十米、振袖石はこれにつぎ、これらによって築城時の工事の壮大が想像される。写真向つて右が蛸石、左が振袖石。

写真で見る大阪城に、蛸石の正面からの写真があります。

他ではまず見ることの出来ない巨石が数多く見られるのも大阪城の石垣の特徴の一つである。城内で巨石が特に集中しているのは大手門枡形、京橋口枡形、そして本丸桜門枡形の三箇所であるが、他にも地面が全て花崗岩の切石で敷かれた極楽橋枡形、枡形は大正期以降、軍部によって撤去されてしまったがやはり巨大な鏡石が残る玉造口なども必見のポイントである。

 これら巨石群も建造時期によって微妙な違いが見られる。再建工事第一期に組まれた大手口枡形や京橋口枡形の巨石には切りだされたままの形で使用されたためか表面が大きく彎曲している箇所があるが、再建工事の第二期に建造された桜門枡形では巨石にもかなりの表面加工が施されている。

 また、これら巨石は内部に組まれた石垣(それだけでも通常の石垣として通用するクオリティがあるという)を覆う化粧板的な使い方をされていることが解体修理の際に解明されており、表面積の割りには意外と奥行きが短いことが知られている。

蛸石と振袖石は、備前藩の藩主、池田家の領地である瀬戸内海の犬島から切り出されたそうです(蛸石(たこいし)って知ってますか?~日本の銘石「犬島石」)。

大阪城の石垣「徳川の権力を誇示」によると、この石を切り出したのは佐賀の鍋島家でした。

犬島の歴史を見ると、江戸時代の「1628年(寛永5年)には牛窓にキリシタン穿鑿のための番所が設置され、犬島にも在番構所が備えられた」とあります。

犬島から目と鼻の先の小豆島も石垣の石を切り出した場所であり、ここを訪問した記事もありました(小豆島は石の島、大阪城の巨石の故郷「天狗岩丁場」へ)。

ここの丁場は福岡藩黒田家の初代当主・黒田長政と嫡男・忠之が大阪城築城の際に採石をした場所で、黒田家の代表的な刻印である〇に□が刻まれた残石を見ることできます。大阪城の大手門から千貫櫓を映した1番上の写真で、この櫓の北側の石垣を担当したのも黒田家です。大阪城の石垣にも黒田家の刻印が残っており、小豆島の石が大阪城の石垣に使用された証拠のひとつとなっています。

黒田長政は豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の嫡男として生まれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、九州征伐、文禄・慶長の役で活躍した武将。天下分け目の関ヶ原の合戦では小早川秀秋と吉川広家を徳川側に付けて、東軍を勝利に導いた最大の功労者でもあります。

黒田家は関ヶ原の合戦の功労にて得た筑前国52万3千石に自身の福岡城、徳川幕府の命による江戸城、名古屋城と数々の築城に携わり、築城の名手と呼ばれております。小豆島は良質な石を産出し大阪にも近い天領だったので、黒田家はココに採石場を開いたのでした。

遊歩道の左右は何処を見ても巨石が随所に見られます。現在では木々が茂って見通しが良くないですが、往時はここの丁場からも瀬戸内海が見渡すことができたはずです。横たわる巨石はノミで矢穴を穿ち、楔入れられて切石となるも運ばれずに残念石とも呼ばれているそうです。この天狗岩丁場の南の入口には黒田藩の命にて、明治維新の頃まで丁場に残る666個の石の番をしていた七兵衛屋敷跡もあります。

切支丹大名の一人である黒田長政が関わっていることがわかります。日本の石工といえば穴太衆ということになっていますが、穴太衆は自然石をそのまま積み上げる能力に優れている一方、蛸石のような加工を施す手法は西洋の石工が得意とするところです。穴太衆とフリーメーソンには関りはなく、代わりに切スタン大名を通じてフリーメーソンとの関りがあったとみるべきなのではないでしょうか。

販売

ヤフオク出品中:商品名:HY19/04/25-1