帝国海軍の首脳部 昭和11年7月9日現在 少年倶楽部附録

2019年3月24日

帝国海軍の首脳部 昭和11年7月9日現在 少年倶楽部附録
帝国海軍の首脳部 昭和11年7月9日現在 少年倶楽部附録
宛名面
宛名面

WikiPediaよりそれぞれの略歴を引いてみます

伏見宮 博恭王(ふしみのみや ひろやすおう、1875年(明治8年)10月16日 – 1946年(昭和21年)8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長を務めた。栄典は元帥海軍大将大勲位功一級。初め名を愛賢王(なるかたおう)といい、華頂宮相続に当たり名を博恭と改めた。

日露戦争では連合艦隊旗艦「三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う[注釈 1]。また艦長や艦隊司令長官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。

海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋三吉、嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示して艦隊派寄りの政策を推進し、ついに海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、更には兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功して軍令部は海軍省に対して対等以上の立場を得ることとなった。こうして日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治、真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。この時、昭和天皇の不興を買い、その後は叛乱鎮圧に向けて動いている。

 

永野 修身(ながの おさみ、1880年(明治13年)6月15日 – 1947年(昭和22年)1月5日)は、日本の海軍軍人、教育者。海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。千葉工業大学の創設発案者[1]。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンにて病死。

 

藤田 尚徳(ふじた ひさのり、1880年(明治13年)10月30日 – 1970年(昭和45年)7月23日)は、日本の海軍軍人、神職、侍従長。軍人としての最終階級は海軍大将。

1939年(昭和14年)、海軍兵学校同期の高橋三吉と語らい、米内を現役の海軍大将で残すため[1]に、自ら予備役を願い出て編入の後、明治神宮宮司を経て、1944年(昭和19年)9月から1946年(昭和21年)5月まで昭和天皇の侍従長を務めた。終戦後の1945年(昭和20年)9月27日、昭和天皇に付き従い、虎ノ門の米国大使館でのマッカーサーとの会見に同行。会見後の予定になかったマッカーサーの御見送りや、帰りの車中で天皇のご機嫌が良かったことから、その後の皇室の安寧を確信した。

侍従長退任後は愛知県安城市に隠遁し、また天皇より鳩杖を賜る。

 

米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 – 1948年(昭和23年)4月20日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。第23代連合艦隊司令長官。第39-41、49-52代海軍大臣。第37代内閣総理大臣。

1937年(昭和12年)6月4日、第1次近衛内閣でも海相に留任した。

8月9日に第二次上海事変発生すると、8月13日の閣議で断固膺懲を唱え、陸軍派兵を主張した。8月14日には、不拡大主義は消滅し、北支事変は支那事変になったとして、全面戦争論を展開、台湾から杭州に向けて、さらに8月15日には長崎から南京に向けて海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。さらに同日から8月30日まで、上海・揚州・蘇州・句容・浦口・南昌・九江を連日爆撃し、これにより日中戦争の戦火が各地に拡大した。

 

松下 元(まつした はじめ、1884年8月10日 – 1953年12月1日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校で教育に使われた「五省」の考案者として知られる。

五省は戦後の海上自衛隊幹部候補生学校でも一日の終わりに唱えられているそうです(帝国海軍は生きている~海上自衛隊幹部候補生学校に見る帝国海軍来の伝統)。

 

コード

19/03/24-1