「自己暗示」C.H.ブルックス、E.クーエ (著), 河野 徹 (翻訳)(法政大学出版局 新装版 初版1966年 原著初版1922年)

「想像力」は「意志」よりも強い/薬剤師クーエが薬の効果の違いから気付いた無意識の重要性。1966発行(原著1922年発行)で今も売れ続ける名著。

→目次など

 

私たちの生は無意識の世界に大きく影響を受けています。自転車に乗れるようになるのは、言語化された知識ではなく非言語的な知識が獲得されたからに他なりません。

無意識は姿勢や表情に現れ、無意識が病気を作り、健康を作っています。クーエは、薬の効き方の違いから、無意識の影響力に気付き、「意識的自己暗示」によってぜんそくの治療や、麻痺の解消などの治療効果を得ました。アルコール依存症などの依存症や、抜糸時の痛みを感じなくさせるなどの苦痛軽減、短気な性格の矯正などにも効果があり、実用的な内容であるともいえます。

「day by day, in every way, I’m getting better and better(日々に、あらゆる面で、私はますますよくなってゆきます)」と、朝と夜、寝起きと就寝前に20回づつ反復朗唱すれば、自身の備えている回復力によって健康を取り戻すことができるというのは、意識的自己暗示によって無意識の領域が変化するからです。

この本では、人間だけが持つ言語の重要性や、本来荒れ馬のように制御しがたい本性を制御してキリスト教の価値観にそった生き方を実現するものとして自己暗示がとらえられています。しかし、私が読む限りでは、言語そのものよりもイメージの力である点で言語を持たない動物たちにも共通しており、むしろ本来の性質を曲げて暮らさざるをえない人間界であればこそかえって意図的な矯正が必要であるととらえてもよい内容になっています。

このように、限界または問題点を抱えた内容でありながらも、この本が長く読み継がれている理由は確かに存在しています。

たとえば、テレビと新聞の影響を考えてみましょう。私はこれらをやめることで、不安感が随分低減したことを数年後に実感しました。日々接していた事故の映像や、生命保険などのコマーシャル、景気動向などの情報によって、無意識のうちに不安感を募らせていることが影響していたのだと感じます。

意志と想像力には、微妙な関係があり、もともと信じようとしない者には自己暗示は効かず、無意識の中で拒否していれば、逆に作用してしまうこともあります。無意識のうちに作りあげた価値観(個人主義、自己実現、物質と精神、未来のビジョンなど)によって、私たちの生き方が変ります。

無意識の世界はなぜ重要なのか。この本を起点に考察してみれば、無意識はヒトの成長にとって不可欠である自己肯定感につながり、洗脳(価値観の植え付け)につながり、医療荒廃の問題につながり、教育やメディア・政治につながっていると気付きます。

だからこそ、この本は売れ続けているのでしょう。ぜひ読んでおきたい本の一冊でした。(「無意識」の世界だからといって、精神分析に取り込まれるような愚はぜひとも避けたい)。

内容の紹介

 

「解説」より
ここはたいせつなことだからくり返すが、私たちの脳はもともと、私たちの知らぬまに全身を調節しているのだから、自分のもっている言語でその調整が狂わされていることも気づかないのである。しかも、それは「胃病になる」というような言語よりも胃病になったときの状態を想像する言語の方が強力であることは科学的にも証明できる。たとえば、「手を上げろ」という命令が脳からでているように思っている人がいるが、じつは手を上げたときの状態を知っていて、そこまで手を動かすことなのである。本書で「想像力」という用語をつかっているのは、かならずしも不適当とは思わない。「考え」というと範囲が広くなりすぎる。 – viiiページ

 

「どんな仕事にかかるときも、つねに<これはやさしい>と考えなさい。 <むずかしい>とか<不可能>とか<だめだ>といった言葉は、御自分の用語から抹消することです。 そのかわりに<これはやさしい、だいじょうぶだ>という言葉を専用しましょう。 他人がむずかしがるようなことでも、自分でやさしいと考えれば、実際にやさしくなってきます。 あなたは、それをたやすく、労せずになしとげ、しかも疲れを感じることすらないでしょう」 – 14ページ

 

要約すると、自己暗示の過程は、(1)考えを受け入れ、(2)その考えを現実に変える、という二つの段階からなっている。 そしてこの二つの作用をおこなうのは無意識なのである。 その考えが、本人の心から出たものか、それとも、外部から他人の媒介で提示されたものか、などと問題にする必要はない。 どちらの場合も、その考えは無意識に提示され、受けいれられるか、もしくは退けられるか、すなわち、実現されるかもしくは無視されるかという過程を経るのである。 だから自己暗示と他者暗示の間に区別を設けてみても、皮相的な独断になってしまう。 本質的には、どんな暗示も自己暗示なのである。 われわれに必要な区別は、①われわれの意志や選択のおよびえないところで起こる無意識的自己暗示と、②われわれが実現したいと思う考えを意識的に選び、それをなんとかして無意識に伝えようとする誘導自己暗示の二つだけである。 – 43-44ページ

 

歯痛や頭痛など、激しい苦痛に悩んでいるときは、坐って目を閉じ、その苦痛をこれからとりのぞいてやる、と自らに保証する。 そっと手で患部をさすりながら、できるだけ口早に音をたえまなく流すような調子で「消える、消える、……消えた!」(It’s going, going……, gone!)とくり返す(日本語の場合は「なおる、なおる、なおる……なおった!」でもよかろう)。 およそ一分くらし深呼吸が必要になるまでぶっ続けに唱え、「消えた!」(’gone!’)という言葉は一番最後のところで用いる。 以上のようにすれば、苦痛は完全に止まるか、少なくともかなりひくであろう。 – 89ページ

 

自己暗示は、生活の重荷とよばれるものの少なくとも大半が、われわれ自身でつくりだしたものだという教訓を垂れている。 われわれは精神内部の考えを、われわれ自身やわれわれの環境のなかに再現している。 自己暗示の仕事はその先にある。 すなわち、精神内部の考えが望ましいものでないときにはとりかえ、望ましいときにはさらにはぐくむという手段を提供して、それ相応の改善をわれわれの個人生活に施すのである。 しかし、その過程は個人に終わるものではない。 社会についての考えは社会的状況の中に、また人類についての考えは世界的状況の中に実現される。 – 106ページ

 

暗示、というよりはむしろ自己暗示、の果たす役割を正しく理解するためには、意識していない自己というものが、われわれのあらゆる機能をつかさどる最高管理者であることを知ればじゅうぶんである。 正常に機能していない器官があれば、先述したとおり、その器官は自らの機能を付移行すべきであるということを信じこませる。 そうすれば、ただちにその命令が伝達されて、その器官は素直にいうことをきき、即座に、もしくはすこしずつ、正常な機能を営むようになろう。 以上の説明から、暗示の力で出血をとめ、便秘を止まらせ、繊維性腫瘍を消し、麻痺・結核性障害・静脈瘤性潰瘍をなおしうるわけが簡単明瞭になったと思う。
一例として、トロワの歯科医師ゴーテ氏の診察室で、たまたま観察する機会をえた抜歯後の出血という症状をあげてみよう。 私は、八年来の喘息に悩んでいた若い女性を治療したことがあったが、彼女がある日やってきて、歯を一本抜きたいという。 私は、彼女が非常に敏感なのを知っているので、手術をなんとも思わぬようにしてあげようと申し出た。 彼女はもちろん喜んでこの申し出をうけいれ、われわれはゴーテ氏と手術日を打ち合わせた。 当日ゴーテ氏の診察室で、私は彼女と向い合って立ち、彼女を凝視しながら「あなたは何も感じない、あなたは何も感じない……」と暗示をはじめ、なおも続けながらゴーテ氏に合図を出した。 一瞬のうちに、彼女が髪一本動かす間もなく歯は抜かれた。 だがその後で、よくあることだが、出血がはじまった。 そこで私は、ゴーテ氏に、止血剤を用いず、暗示をかけてみてはどうかと提案した。 もちろん、あらかじめどういう結果になるか知っていたわけではない。 私をじっとみつめるよう彼女に命じ、「二分間のうちに出血は自然に止まるだろう」と暗示をかけて、われわれは待った。 彼女はさらに一、二回血を吐き出したが、もうそれっきりだった。 私は彼女に口を開かせ、ゴーテ氏とともにのぞいてみたら、血が歯腔の中でかたまっているのがわかった。 – 136-137ページ

動物たちの強さは、実は「想像力」によるものなのではないでしょうか。